BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№54「猫に小判」

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「カン・オツ・モン、の三種の音を自在に調節できるのが磬子職人です」
 と自信に満ちて語るこの人、三代目昇龍を名乗る業界では知られた職人さんだった。その説明に依れば、棓(バイ)が磬子に当たった刹那に鳴る音がカン(甲)、言ってみれば「ゴオ~~ン」という音の初めの「ゴ―ン」のところ。続いて磬子が振動して響く共鳴音がオツ(乙)、「オ―ンオーンオーン」のところ。そしてオツの音がだんだん小さくなって行くのをじっと聞いていると、後から「ムウォ~ン」と微かな音が聞こえる、これをモン(聞)と言うのだそうだ。この三つの音の響きを、それぞれ大小、長短、澄濁などなど詳しい表現はよくわからないが巧みに調整し組み合わせて一つの磬子の「鳴り音」を創るのだそうだ。
 9年ほど前、ゆえあって小中大合わせて三つの磬子を新調しなければならなくなり、どうせなら仏具屋を介するよりも製作所へ行ってみようと訪れた工房で伺ったことだった。
 工房の中はとにかくやかましい。
http://www.syouryu.co.jp/shimatani/koutei/index.html
 荒仕上げした磬子を、ひねもす職人が金槌でガンガン打ち続ける。厚い金属板を薄く延ばしてゆく作業かと思ったら、それもあるが、先ほどの音の調節のための作業だという。
 試しに調律前の磬子の音と、それをガンガン調律した後の音を聞かせてもらった。なるほど「ちがう」かもしれない・・。
 三代目の熱い語りを〈これってセールストーク?〉みたいなギモンもちょいちょい湧きながら、ともかくもさすがと思い聞いていた。結局、予定していた三つの製作を依頼した由である。
 時至って仕上がった三つが届く。打ち鳴らしてみる。う~ん、いい〈のかもしれない〉。いやじつのところはよくわからない。ま、でも自分の足で赴きこの目で選んできたんだからいいんだこれで、いや、いいんだこれが。
 それから3年ほどして、ふと見ると中くらいの大きさの磬子の底がボコッとへこんでいる。三代目の言っていたもう一つのことを思い出した。
「磬子は薄く叩き延ばしてゆくのだから、縁以外の腹や底の部分はぺらぺらなんです。まちがっても絶対に縁以外を打ってはだめです」
 まさかひっくり返して底を打つわけもない。後になってわかったのだが、お寺に出入りのお手伝いをよく頼むおばちゃんが、場所をどけようと持ち上げた時に床板の上に落としたことがあったらしい。不幸中の幸い、磬子の中をのぞき込まなければ外見からはわからない。おばちゃんには、しかたないよ、気にしないで、と。
 困ったのは音のことである。カン・オツ・モン、三種の調律を仕上げた職人技の結晶が、底の部分とは言えつぶれたカボチャのようになってしまった。打てばたしかに鳴る。そしてとりあえず響く。困っているのは、その格段に悪くなったはずの鳴り音に、私の耳が気づけないのだ。