BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№55「きっかけは〈鈴〉」

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 「奥様のお名前は、〈れいこ〉さんですかそれとも〈りんこ〉さんと訓むのですか?」
 「いや、〈すずこ〉です」

 あるお葬式の事前打ち合わせ、喪主である故人の夫とのやり取りである。
 〈鈴子〉と書いて〈すずこ〉と訓む例はあまり知らなかった。
 その病が見つかった時にはすでに遅く治療すること適わず、ご本人はじめご家族の気持ちの用意をする間のない疾すぎるご逝去だった。「〈すずこ〉です」という語勢に苛立ちが含まれていたのも、たんに私の言い間違いを責めるというよりも、死別の悲憤が出口を探しあぐねていたからだと思う。
 ご戒名に生前の名前の文字を入れる決まりなどない。私もいつもは特段俗名に気遣うわけでもないが、この時は〈鈴〉の一文字を入れて安名した。

 僧侶ではない知人たちからときどき言われることがある。
 「戒名ってのは生きている時の名前を使うもんだろ?」
 「こないだ友達の葬式行ってきたら、戒名が俗名と関係のない文字ばっかりだったなあ」
 こんな会話がふつうに行われているほど、今日では俗名にゆかりある戒名というのが流行りなのだろう。べつに悪いこととは思わないが、よいこととも思わない。
 いわく「俗に対する執着を断ち切るのが出世間を求めた仏弟子の立場。仏弟子の名前である戒名に俗名の影響を求めるなど論外」
 と言うかたくななご老僧がいた。
 お気持ちはわからないでもないが、そこまで頑固でなくてもいいでしょう、と思う。
 生前戒名授与もそれなりに知られるようになった今日、私もそれを奨める一人だが、名前が変わることをその人の生の転機と捉えることは充分に意味あることだと思う。
 時には自分で好みの文字や熟語を挙げて、「この字を使って下さい」などという人もある。多くの場合は私は断る。その理由は二つ。
 一つは、師が安ずるべき名前を、弟子のリクエストに唯々として応ずることに抵抗のあること。それならば自分で雅号なり別号なりペンネームなり、好きに名乗ればよい。戒名はそれと違う。
 いま一つは、その人の意向をくみ取りつつも、その提案する文字以上の所を狙いたい。たとえば「子孫が繁栄するように〈繁〉と入れて下さい」というリクエストならば、あえて〈繁〉は使わずに、「満山清澄」などと切り返したい。
 
 振り返れば自分の死を好きなように演出したいという願いを、あたう限り満たしてあげようという風潮が支配的なようだ。
 遺体処理を含む葬法しかり、告別の場をあしらおうとすることしかり。そしてこの風潮に歩調を合わせる寺院・僧侶しかり。
 非難がましく聞こえたらお許しいただきたい。私にもそういうところは充分にある。
 しかしこの言葉がいつも頭の上にある。

 「生も不如意、死も不如意」
 
 思い通りにならない生を生き、思い通りにならない死を死ぬ。たしか、そういうことだったよなと思う。その不如意なる生死をうけとめて歩みゆくことこそ「生死」だったはず。
 30年ほど前、いや20年ほど前でもそんな勢いの良いことを思っていた。今になって変わったとは言わないが、〈鈴〉の文字を戒名にしのばせたりしている。