BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

延岡の権藤圓立 (2)父、権藤圓海 

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 圓立の父・権藤圓海について、現在79歳、圓海の曾孫に当たる権藤正樹師は、
 「たいへん厳しい人で、また漢文がよく出来たそうですよ。私の祖父。正行(圓立の長兄)が子供の頃から漢文の勉強を教えて、毎朝学校へ行く前にその勉強が終わらなければ学校へやらなかったそうです。おかげで正行は、学校へ入学した時には、先生よりも漢文が読めたそうです」
と教えてくださった。
 『延岡先賢伝』(松田仙峡谷編著、昭和35年発行)に圓海の略歴が紹介されている。

 権藤圓海(僧侶)1839~1918
 権藤圓海は空華と号し延岡市船倉町光勝寺の住職であった。安政3年(1856)3月19日豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園へ延岡より初の入塾をした人である。維新の際は教界の為に尽瘁する処多く、詩文を友として塵外に高嘯した。
 嘗て維新の際故あって寺を出て流寓したが後帰山して感を述べて曰く
 風雨凄々倒堵牆、満天陰気及衣装、
 鶴猿無迷宿新樹、燕雀有情巣古堂、
 雲外六年疑放逐、恩栄今日覚疎狂、
 分離論上欣開眼、恰似雲烟遮太陽
 圓海は帰山後延岡監獄支所の教誨師を無償で引き受けたが後認められて年俸を与えられた。

 大正7年9月29日、80歳で病没した。法名は「空華院釈圓海」で墓は河原崎墓地にある。圓海は詩文をよくし又詩友も多く林田省一郎、早川春村の墓碑文などを書いている。又その試作を集めた「鼠壌余蔬集」一冊がある。

 広瀬淡窓(1782~1856)は江戸後期の儒学者として知られた人である。その私塾・咸宜園は現在の大分県日田市に所在した。「延岡より初」とあるところからその優秀さの群を抜いていたことがわかる。

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 咸宜園の歴代塾主の記録を見ると
 1)廣瀬淡窓 文化2年 - 文政13年(1805年 - 1830年
 2)廣瀬旭荘 文政13年 - 安政2年(1830年 - 1855年)
 3)廣瀬青邨(青村) 安政2年 - 文久3年(1855年 - 1863年)
 4)廣瀬林外 文久3年 - 明治4年(1863年 - 1871年) 以下略
とあるので、圓海入塾当時は第三代・青邨のときである。この時、圓海17歳である。
 明治元年には29歳を迎えている。維新の頃の動向は興味惹かれるが記載している以上のことはわからない。教誨師のくだりは積極的に地域教化のために尽力した人であったことを窺うわせる。

 私が圓立の父・圓海について興味を抱いているのは、前に紹介した圓立の次の文章がきっかけだ。

  「うつし世」について
 私(註、圓立)の幼少の頃、郷里(宮崎県延岡市)で私の母達が先に立ち仏教婦人会を組織していた。この会は、毎月一回真宗の寺で集会した。その頃真宗の寺は四ヶ寺あったので廻り持ちに集会したものであった。集会の時は、その寺の住職によって仏前勤行。法話が行われ、法話が済んで歌を唱和し、その後でお茶を飲みながら雑談して散会という、極めてなごやかな会であった。そして毎月決まった日の夜開かれていた。会場になった寺には、昼間は紺地に白字で、延岡仏教婦人会と染め抜いた旗が立てられ、夜になるとおなじ字を書いた大張提灯が門にともされた。又茶話会の時の茶碗や茶瓶には、白地に金色で延岡仏教婦人教会と書いてあったことを覚えている。
 婦人会の運営は、会長もなく会期というようなものもなく、ただ篤信な中年の男の方二人が庶務会計のような仕事をして一切を司っていた。会費はどのくらい徴収していたか覚えていないが婦人会のあるたびごとに納めることになっていことだけは記憶に残っている。会員や会員の家の人が亡くなった時は、会から香典を贈り、会員皆で会旗を先頭に会葬していた。実に和やかに何のいざこざもなく、よく秩序だって統制されていた。入る者拒まず出る者追わずという、極めて門戸開放主義で、ただ法話を聞くということが会のモットーであった。今日から五十余年前にこういう婦人会があって、しかも歌を歌うていたことということは、今から考えてみると珍しいことと言える。それは私が小学を終えたばかりの頃であったが自分の家で婦人会のある度毎に歌われる歌が、いつと話にすっかり身に沁み込んでしまっていた。
 昭和の初め、前に書いた仏教音楽協会に、この婦人会の歌の曲を思い出して書きつけて出したら、皆非常に称賛した。藤井清水君が伴奏譜をつけて立派な曲譜となった。婦人会の時の歌詞は親鸞聖人の一代記を八五調に長く綴られたもので
  月日のうつるは こまのはし はやるや水より なおはやく
  野山田畑の 景色まで 今年も今また 暮れにけり
が歌い出しであった。
 教会ではこれを汎仏教のものにということで、新たに作詞を野口雨情氏に依頼して出来上がったのが、現在方々で歌われている「うつし世」である。私も好きな曲であるから、数え切れない程演奏もし講習もしている。
 この原曲というのは、その頃何んでも西本願寺系の人で宗因社というものをつくり、歌を歌うて布教していた人があったが、その歌をそのまま婦人会で転用したものと聞かされている。
 五十余年前の延岡仏教婦人教会は、消えてなくなってしまったが、その婦人会の歌は、今尚「うつし世」に生まれ代わって現存している。そしてまたこのうつし世の作詞者も編曲者も、今は故人となってしまったが、その作品は今なお生きていて世の人の心をうるおしている。人の命は短くも、芸術は永し。うつし世はこういう経歴を持った歌である。(以上、引用文)
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/07/06/162320

 ここに父・圓海のことは直接見えないが、住職である圓海の運営する光勝寺教化活動の一端が具体的に現れている記述として興味深い。
 ちなみにそれぞれの誕生年から計算して、長男・正行は圓海42歳の時の子供、五男・圓立は52歳の時の子供である。
 今回、光勝寺で伺ってみたかった一つは、ここで圓立が述べている「うつし世」の原曲(それは「観世音菩薩讃仰御和讃」の原曲でもある)当時の婦人会の歌が、今でもお寺、あるいは信者の間に伝わっていないだろうかということだった。
 正樹師に訊ねてみた。話だけでは思い出しにくいだろうかと圓立の歌ったビクターレコードの「うつし世」の音源を聴いていただいた。すると正樹師が圓立の歌声に合わせて「うつし世」の歌詞を口ずさみ初め、私は内心小躍りした。だが、たしかめて伺ってみると、この歌を知っているのはレコードや圓立自身を通じて「うつし世」になって以後のことで、それ以前の、つまり圓海当時の婦人会の歌としては知らないということだった。

 延岡市立図書館に所蔵されている『鼠壌余蔬集』を繙いてみた。
 大正4年(1915)8月30日の発行。「権藤空華」の雅号で著者名が記されている。校閲者・発行者は長男・正行である。全編漢詩文でその素養のない私にはとても内容まで踏み込めないが、心許ない読みながら若干の紹介をしよう。
 
 長倉鶴巣によって識された序文に続いて、正行の識語がある。

 正行、詩稿の名を問う。
 海曰く、「廣維孝、淡窓翁の詩の上梓を請う。翁曰く、鼠壌余蔬なり。けだし翁の謙遜の言か。予の詩の如きは誠に鼠壌余蔬なり」。
 正行曰く、「取て以て名とするは如何」。
 曰く、「然り」。
  大正三年八月 正行誌

 広瀬淡窓の『遠思樓詩鈔』という詩集に、淡窓小品という一編が収められているが、その別名を「鼠壌余蔬」という。圓海の詩集は咸宜園での学習の延長にあるものと言えるかもしれない。

 長倉の序文に次の一文があった。
 「予、延岡に於いて、詩酒の交わり浅からず」
 また同じく扉の部分に詩を寄せた時行なる人の一節。
 「海師、もとこれ酒中の豪」
 正樹師の次の話を思い出した。
 「祖父の正行も酒はよく飲みましたが、圓海という人もかなり強かったらしいですよ」。