BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

延岡の権藤圓立 (3)長兄、権藤正行

 権藤圓海の長男・正行師(以下敬称略)。圓立よりも十歳年長のこの長兄の存在が、音楽家として成長した圓立にとっても重要な存在であったと思う。その理由を述べる前に、まず正行その人の輪郭をたしかめておこう。

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 (権藤正行師写真・光勝寺広間)
 昭和47年に刊行された『延岡先賢遺作集』に、正行の墨跡写真を一枚掲げ、その略歴を添えている。

 権藤正行 (宗教家)
 年代 1881~1964年
 略歴 権藤正行、号は止水、明治41年5月22日延岡に生る。真宗大学を卒え、東本願寺鹿児島出張所録事たること多年、明治40年先住空華の後を継いで光勝寺住職となる。詩文に巧みにして書をよくす、又郷土史に詳しく「有馬三代考」の名著あり。外に「先考余瀝」「鼠壌余蔬」の著書(引用者注:「鼠壌余蔬」は父・圓海の漢詩集、正行はその編集者)あり、昭和25年11月文化功労者として延岡市より表彰さる。
 昭和39年12月24日病没行年84才。

 正行の略歴をまとめたものには、他に『宮崎の百人』という書名の新聞記事スクラップ集が延岡市立図書館に所蔵されていた。その新聞の元記事の発行年月日は付記されていなかったが、内容はほぼ上記に同じである。こうした採り上げられ方を見ても、宮崎・延岡では著名人の一人であったことがわかる。

 郷土史に詳しいことが記されているが、昭和31年発行の『城山とその鐘 城山の鐘鋳成満300年記念』(延岡文化連盟)には、同じ延岡市内の医師・四倉隣城と「城山の今昔」と題した対談が収録されている。また『延岡市史』にも協力しているようで、郷土史家としては一定の評価が成されていたようである。

 また真宗寺院の住職として、宗教家という一面でも活躍していたようである。
 昭和11年に『権藤正行師講話集』が発行されている(凡人会発行)。収録されているのは昭和8年から同11年にかけて行われた六編の講話録と一編の歴史戯曲である。それぞれの標題は次の通り。
 「生活の中心」(東海婦人会にて)
 「六道能化」(方財地蔵尊開眼式にて)
 「自覚の一道」(延岡市女教員会にて)
 「農業生活論」(岩井川青年学校にて)
 「釈尊の御姿」(延岡高等女学校釈降誕会にて)
 「往生安楽国」(仏教講座にて)
 附録「戯曲・直純と山田右衛門作」

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          (『権藤正行師講話集』口絵写真)

 編者が序文に記す、

 「宗教という特別の世界があるのではない。日々の仕事を真面目にやって行くところに、真実の宗教的天地は開けて行くのである」とは、師の常に諭さるるところである。生活を離れて在る宗教は、観念の宗教に過ぎす、罪業深重の私を度外において、仏の救済はあり得ない。師の足跡今や全国的にして、先年は朝鮮の各地を、今年は満州の全野に獅子吼して、この微妙の大法をあらゆる階級、あらゆる職業の人々に伝えられることができたのは、単に一宗一派の布教宣伝ではなかった何よりの証左である。

という文章は、正行に尊敬の念を寄せる編者の思いであるが、当時の周囲の人々の気持ちを代弁するものでもあるだろう。この頃の正行は50歳代の前半。世間の人びとの信任の厚さがうかがわれる。
 いずれの講話も平易で暖かみがあり、かつ信仰の要所を突いている。話の一コマを紹介したいのだが、いずれも数十ページになるもので、引用がやや長くなる。そこで若干切り詰めてここに引こう。「生活の中心」のひとくだりである。

 縁談のまとまりそうな娘がいた。その娘の母親が決して乗り気ではない胸の内をある先生に相談した。
「普通の家と違っておりますので」
「普通の家と違っているのならばなお結構だ」
「それが今度娘が行く家には両親とも達者で」
「そりゃ結構じゃな」
「おまけに小姑が二人」
「ますます結構だな」
「まだあります、じつはその人は再婚で、先の人の子どもが二人も」
「いよいよ結構だ。娘はなんと言っている」
「嫁ぐと言っておりますが」
「じゃ、話はできた。こんな結構な縁談なんて滅多にあるものじゃない」
 けれども母親は不得要領な心持ちで帰りました。
 翌日、今度は娘さんが先生のところへやって来ました。
「今度おめでたい話じゃ。しかし、どんな心持ちで行くか聞いてみたい」
「先方へ行きましたら、先ず両親を大切にします」
「そりゃいかんな」
「いえ、それだけではなく妹たちも大切にして、ほんとうの姉妹のようにします」
「いよいよ、いかん」
「そのうえ、先の人の子どももいると言いますから、我が子のように致します」
「いかんいかん、そんなことを考えてたまるものか。やめだやめだ」
 さあ、娘さんわけがわからない。
「ぢゃ、どうしたよいのでしょう」
「どうしたらよいかって私が知るか。嫁入るのはお前なのだ」
 こう突き放されてはとりつく島がない。娘は帰っていきました。
 娘はその夜一晩中考え、翌日になってまた先生のところへ。
「先生、私はとんだ考え違いをしておりました。私は、真心一つで行きます」
「馬鹿、そりゃ昨日より悪い。ますます間違いじゃ」
「真心一つで何ごともやり通したなら、何でもできないことはあるまいと思います」
「何できるか。真心なんかあてになるものじゃない。嫁入りはどうでも取り消すのじゃな」
 娘はとうとう泣き出しました。
「まあ、もちっと考えて来なさるのだな」
と先生は突き放しました。
 ここまで言われると娘さんは決心がつきました。三度目に先生のところを訪れて、
「私は嫁入りをやめます」
「なぜだ」
「私には嫁入りする資格がないということを知りました」
すると、先生が不意に小膝をぽんと打って、
「うむ。それでいい。資格ができた。行け行け。すぐお嫁に行きなさい」
と、打って変わった先生の言葉である。娘さんは驚いた。また分からない。
「先生、私ちっとも分かりません。なんで資格ができたのです」
「資格かい。自分には嫁になど行く資格がないとお前に自覚ができた。その自覚が即ち嫁入る資格ぢゃ。資格を捨てきったところに資格ができたのぢゃ。親孝行しますぢゃの、真心で行きますぢゃのというておる間は自分が大将になっている。自分が大将になって、正しい自分には間違いはないと思っているならば、到底、よその家庭にはいりこんで勤まるものではない。私がやめろやめろと言ったのはそれだ。しかし、今日お前はその自分を捨てた。自分を空っぽにした。自分が空っぽになれば、教えてもらう心持ちが生まれる。人の言葉を聞く心持ちが生まれる。この心持ちありさえすればどこへでも行ける。先方へ行ったら、何もかも教えてもらうつもりでいなさるがいい。そうすれば嫁として申し分のない資格ができたというものだ」(引用文終わり)

 話はこの後「我」を捨てる展開へと続く。ちょっと目を通すつもりでページをめくったのだが、思わず引き込まれる話だった。
 こうした正行の人がらを慕い、同時に延岡の文化的な発展を願う人達が集っていた。彼らはまた、圓立・有情・清水等、三羽烏と延岡をつなぐ強力な仲立ちとも成ったようである。続いてはそれについて述べていこう。