BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

延岡の権藤圓立 (4)凡人会

 

 光勝寺境内に建つ「権藤正行師立像」。

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 現在の宮崎県立延岡高等学校は、旧制の延岡中学校、同じく旧制延岡高等女学校を併合して今のかたちとなる。旧制延岡中学校は、明治初期、延岡藩主・内藤氏によって創設された延岡社學に端を発し、後、亮天舎と名を改め、明治32年に中学校として学制発足している。権藤圓立6歳の時である。
 延岡中学の沿革を見ると、その卒業生に全国的な活動を遂げた著名人が並ぶ。第一期生に若山牧水がおり、権藤圓立は第六期生である。そして第九期に小嶋政一郎という名前が挙げられている。

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 小嶋政一郎 延中第9回卒(1893~1977)
 延中 先輩の権藤圓立の誘いで芸術教育協会に加わったが、その後帰延し、教育界に復帰。凡人会を作り、昭和3年から月刊誌「凡人」を発行。後に「光輪」と改称、昭和14年まで続いた。昭和8年から5年間 方財小学校校長。
 
 芸術教育教界については以前紹介した、圓立自身の文章に触れてあった。
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/07/06/162320
 またこれも紹介した飛鳥寛栗の文章でも触れている。
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/06/30/221818
 今一度整理すれば、大正13年4月、大阪を拠点に活動していた楽浪園の三人(野口雨情・藤井清水・権藤圓立)が中心となって結成した芸術文化活動で、月刊誌『芸術と教育』の発行や、講演学習活動を展開したものである。だが東京在住であった野口の誘いに応じた他の二人の東京転出によって、後に解散している。圓立と同郷、かつ同窓の後輩であった小嶋がこの活動に歩を合わせていた。そして延岡に帰京後、在郷の同志と起ち上げるのが凡人会である。

 楽浪園の三人と凡人会の関わりについては、平成4年に発行された小嶋かず枝の『楽浪園の三羽烏と延岡』(以下『楽浪園』)に詳細に記述されている。著者の父が小嶋政一郎であり、凡人会に関わる地元資料(会誌「凡人」「光臨」いずれも小嶋政一郎編集)や伝聞情報が豊富にあったこともあり、非売品のこの本は、延岡と権藤圓立に関わる貴重な情報を提供してくれる。web検索で手を尽くしていたが、古書や東京近郊の図書館情報では、この書にたどり着けなかった。飛鳥寛栗の圓立に関する記述も大半はこの書をもとにしている。今回、延岡市立図書館を訪れた大きな目的の一つはこれにあった。
 しばらくこの書を資料として、凡人会の活動を述べよう。

 野口雨情氏が延岡におみえになったことについては、延岡出身の権藤円立氏がいらっしゃったことは勿論ですが、光勝寺住職の権藤正行先生、誓敬寺住職の香春賢一先生を中心として、親交を深めあっていた凡人会の方たちの力が大きかったと云えます。(以上引用文)

 大正11年の冬、延岡としては全く珍しい“お客さん”を迎えた。野口雨情、藤井清水、権藤円立の三人である。(前略)
 ふとしたことから、この三人は、同気相求めて“一体”となり、大阪に根拠地をおいて、大いに新しい童謡や民謡を、少なくとも西日本一帯に普及しようとして起ち上がったのが大正10年。
 これに小坂で市民館長をしていた志賀志那人と私(小嶋政一郎)が加わり、この集団の名を楽浪園と称していた。
 私がその同人となった因縁はといえば、郷土出身の権藤円立がいたからで、大正13年に、東京から大阪に私を呼んだのも権藤円立だった。
 野口、藤井、権藤の一行三人が延岡に来てくれたのは大正11年12月、雨情さんは、マントの襟を立てて、汽車からおりて来た。(以上『楽浪』に引用されている小嶋政一郎の文章)

 こうした動向を見ると、大阪で活動してた権藤等三人の活動に合流する前後から小嶋とのつながりはあり、延岡との関係も同様で、この動きの中で楽浪園がかたちとなり、芸術教育協会に発展するようである。
 小嶋政一郎について言えば、芸術教育協会に合流する一年半前、東京の小原圀芳(教育者・多摩川学園創立者)に師事しており、そこから大阪の活動に呼ばれている。芸術教育協会の顧問は坪内逍遙であり、小嶋はその事務局として、かつ会誌『芸術教育』の編集者として参画した。こうしたところに、小嶋の非凡な能力と人脈の豊かさを伺うことが出来る。これが後の延岡・凡人会に継承されるわけである。

 引き続き『楽浪園』に依って、三人(権藤圓立・野口雨情・藤井清水)と、延岡そしてその周辺の活動を見てみよう。

 大正11年12月27日 「講演と演奏の会」延岡市・延岡図書館 ※初回
 大正11年12月28日 「講演と演奏の会」延岡市・延岡図書館
 大正11年12月29日 「講演と演奏の会」宮崎市・宮崎師範学校講堂
 昭和4年4月26日 「講演と演奏の会」延岡市高鍋町・大福座 ※第2回
 昭和4年4月27日 「講演と演奏の会」延岡市延岡町・延岡劇場
 昭和4年4月29日 「講演と演奏の会」宮崎市宮崎町・県公会堂
 昭和4年4月30日 「講演と演奏の会」小林市・高等女学校講堂
 昭和4年5月1日 「講演と演奏の会」小林市・高等女学校講堂
 
 続いて権藤圓立ひとりの講演・演奏会も開催されいてる。
 
 昭和10年4月28日 「権藤円立氏のうたを聴く会」旭ベンベルグ絹糸株式会社延岡工場講堂
 昭和10年4月29日 「権藤円立氏のうたを聴く会」延岡高等女学校講堂
 昭和10年4月30日 「権藤円立氏を囲む座談会」向陽倶楽部
 ※『楽浪園』にこれを昭和14年と標記している箇所もあり、未確認。

 以上は凡人会の主催、あるいは他との共催事業として開催されている。圓立と延岡とのつながりに果たした同会の功績の大きさがわかるだろう。
 一方、同会は「延岡の権藤圓立(3)長兄、権藤正行 その1」
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/12/03/234257
にて紹介した権藤正行の講話集も出版(昭和11年)し、また正行の『有馬三代考』も昭和4年に出版している。同会の広域にわたる文化活動に注目させられるが、正行と圓立の光勝寺兄弟に関わる顕彰活動ともなっていることに注意したい。

 こうした延岡を中心とする文化運動の円環の中に、圓立等の活動が迎えられたのである。小嶋政一郎の精力的な事業展開の手腕とともに、正行の圓立の活動に寄せる共感と協力の思いがあったことは想像に難くないだろう。

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 写真は光勝寺広間に掲げられた正行師の墨跡「八功徳水」。号は止水。

 正樹師が、正行師から聞いたというその由来を教えてくださった。

 「止水というのは、濁った水だと話してよりました」。