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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

延岡の権藤圓立 (5)圓立と延岡

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 権藤円立が野口雨情の招きにしたがって居を大阪から東京の吉祥寺に移すのが大正14年。その翌年には藤井清水も二人の近所へ転居している。だから 「延岡の権藤圓立(4)凡人会」で示した、延岡での講演・演奏活動は、大阪から東京へと移ってもなお続いていたことになる。それ以後は権藤円立一人による帰郷演奏会が行われているのを見てわかるように、三人そろっての延岡での活動は少なくなったのか。戦争が始まり、戦局も悪化するにしたがって自ずと活動も停滞していたのだろうか。これまでに得た資料だけでは定かにはわからない。
 藤井清水が昭和19年3月、 野口雨情が昭和20年1月、それそれ終戦を待たずして圓立を残してこの世を去った。三羽烏の活躍はすでに終わった。
 ただ正樹師がお話ししてくださったことだが、
 「円立おじさんは、正行お祖父さんが亡くなってからここに来るようになりましたよ」
と言う。もっとも正樹師は昭和11年生まれ。凡人会が圓立たちを招いて音楽活動を行っていた頃のことを肌身の記憶としてはご存じない。
 ここで整理しておこう。
 圓海の長男が正行、そして五男の圓立。正行の娘がしげ。しげの夫が福岡出身の信一。しげと信一の子どもが正樹。正樹師にとって圓立は祖父の弟に当たる。
 いま一つつけ加えれば、圓立の妻ははなよと言い、野口雨情に師事した作詞家であり、「笹の葉さらさら」の出だしで知られる『たなばたさま』の作者である。そして圓立とはなよ夫妻には子どもがなかった。正行の娘・しげが東京の女学校へ通っていたときは、圓立家に下宿していたそうである。

 さて話を正行の亡くなった時点から始めよう。
 権藤円立が兄・正行に対してどのような思いを懐いていたのか。これについても貴重な情報を与えてくれるのが、小嶋かず枝著『楽浪園の三羽烏と延岡』(以下『楽浪園』)である。以下本書から該当の箇所をひいておく。

 権藤円立氏の兄の光勝寺住職・権藤正行師は、昭和39年の12月24日に永眠。84歳でした。
 追悼文集の「至徳院余光抄」に権藤円立氏は、次のように書いていらっしゃいます。(権藤正行師の法名は「至徳院釈正行」です)
 私が大正11年、大阪市民館を根城に「楽浪園」をつくり、館長・志賀志那人、作曲家・藤井清水君、浪曲家・宮川松安氏などを同人として、郷土音楽の研究や創作を始めた。
 やがて民謡詩人として名を知られた野口雨情さんが進んでその同人となるなど、その方面の活躍のために準備おさおさ怠りなかったころ、野口・藤井、それに私の三人が東京の本願寺に招待されて、講演演奏の会が開かれたことがある。
 それは、兄(権藤正行)が参務(東本願寺内局の閣僚)でおった時で、兄は、私どもによって、宗教音楽の方面に、時代的の新風を吹き込む機会を作ろう・・としていたようであった。
 昭和の初め、今は亡き伊藤精次氏が「仏教音楽協会」をつくる計画を立てて、東本願寺を訪れたところ、その応対に出たのが兄で、開口一番、弟の私のことを伊藤氏に紹介したそうである。
 昭和3年、文部省宗務局に「仏教音楽協会」が設立されたとき、野口・藤井・私の三人がその評議員となったが、それを一番喜んでくれたのは兄。正行であった。
 兄は延岡小学校を卒えるとすぐ、今日との真宗中学に入学したので、私が物心つくころは、兄弟生活をともにしなかったせいもあるのか、年少のころは特に兄弟愛というものを感じなかった。
 ある夏休みに、おみやげとして黒い学生帽を買って来てくれたことぐらいが、記憶に残っているだけであったが、年を取るにしたがって、ただの兄弟愛などというものではない、別の世界が開けて来て、その世界では、兄の心境がよく理解され、やはり、よい兄であった。ありがたい兄であったと思うことである。
 今は、ゆくりもなく兄の辞世となった歌、
 〈今ぞ鳴る 世界一の暁けの鐘 尽十方のひびきをそえて〉
 この詠草が私に訴えるものは、兄が生涯かけて見つめてきた世界である。この世界には、光勝寺とか真宗とか、あるいは仏教というものすらもなく、大きく、放たれた世界のようである。親子とか兄弟とかいうようなものも、そこでは永遠の生命の中に融けこんでいるように思われる。(昭和40年)
 (中略)
 権藤円立氏は、兄・権藤正行師とのことについて、次のような「思い出の記」を書いていらっしゃいます。
 私が本山当局に求められて「大谷派声明綜合研究要項覚書」を提出せねばならぬ羽目になり、終戦後、新制声明制定委員会が本山に設けられ、真宗勤行の画期的産物である正信讃(従来の正信偈を訳詩して唱詠する勤行式)が制定された。
 そして「昭和法要式」「同朋奉讃式」第一、第二が刊行され、今また「大谷派勤行集」が刊行されるなど、真宗宗門開闢以来の勤行改訂が行われるに至ったのには、兄(権藤正行)の、私への限りなき慈愛と鞭撻とが、その根源となっていることに思い至るとき、
〈大悲ものうきことなくて、常にわが身を照らすなり〉
という宗祖和讃の味わいが、ひしひしと胸にせまってくるのである。(以上引用文)

 正行の辞世の歌に、圓立が作曲した「いまぞ鳴る」。
 その楽譜が圓立の墨書で書かれた額が光勝寺の広間に掲げてある。

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 墨書の五線譜自体珍しいが、それとともに目を惹かれたのが圓立の号である。
 「里芋」。正樹師が言う。
 「おもしろいでしょう。サトイモと書いてリウって言うんですよ」
 圓立師の筆跡はこれまで封書や葉書のものは見ていたが、墨書は初めてだった。しかも五線譜に音譜。しかも里芋。思い出すことがある。正行の号、止水。これも正樹師が言っていた。
 「濁り水、だそうですよ」
 権藤兄弟の、あるいは圓海より続く権藤一族の、確かな教養を内にに秘めた一流のウィットのように思えた。
 この歌は正行師のご葬儀の際、歌声として披露されたという。

 正行の遷化後、圓立は時折光勝寺を訪れたという。講演会や演奏会、暁天講座なども行った。圓立が歌を歌うとき、オルガンの伴奏は、正行の娘(圓立の姪、正樹の母)のしげが担当することが多かったという。しげの吉祥寺から通っていた女学校は幼稚園教諭(あるいは保育士?)になるための学校だったらしい。

 圓立が真宗大谷派の声明制定や音楽活動に関わった背景に、兄・正行の存在があったことは注目してよいと思う。凡人会のこともそうだが、圓立は延岡を離れて活躍の場を求めたのではなく、延岡の地縁血縁が圓立の活動を支え続けたと言えるのである。
 
 最後に訊ねた。
「圓立先生のお墓は今どちらにあるのですか。吉祥寺でしょうか」
 答えは意外なものだった。
「ここに納骨していますよ。ほら、お寺に入るときに右に見えたでしょう、五重塔
 圓立の遺骨は埋葬されることなく光勝寺に納められていた。正樹師が住職在位中、渾身の力を傾注して取り組まれたという伽藍造成事業の精華の一つ。五重塔形式の「納骨廟」である。案内をお願いし、その壇をお詣りする。かつてここを訪れた曹洞宗梅花流関係者がいたかどうか知らない。三羽烏と称された近代仏教音楽運動を牽引してきた三人に心寄せる人の誰かがお詣りしたことがあるかどうかも知らない。

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 納骨廟の外へ出ると再び圓立師の胸像に出逢う。正樹師が言う。
「正行お祖父さんのお葬式に来たとき、私がカメラで撮ってその写真をもとに作ってもらったんですよ」
 正樹師のご夫人が言う。
「ほんとにそっくりなんですよ。このままの人だったんです」

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 お二人に辞去を告げ、山門から外へ出た。「中央通」交差点の一角。対角方向は昨夜のBarの一角。その向こう側に五ヶ瀬川が海へ下ってゆく。その流れをさかのぼる方向へ歩くと城山。おそらく正行師の「いまぞ鳴る」の鐘は、直接にはそこの鐘だったろう。この日、まだ私は城山の鐘が今も鳴っているのかどうかわからなかった。

 だが秋田へ帰省後、延岡で迎えてくれた友人が教えてくれた。「今でも朝、正午。夕方の三回鳴っているよ」と。延岡に在った短い時間の中で鐘の音に気づくことはなかった。今改めて聴いてみたいと思う。圓立も、正行も、そしてこの街を訪れた野口雨情や藤井清水も、彼らが聴いた「尽十方のひびき」を。