BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

吉祥寺の権藤圓立(1)駒澤大学と圓立

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 なにかに急かされるようにその場所へ行きたくなったり、誰かに逢いたくなったりすることがある。今回もその一つだった。

 宮崎県延岡市の光勝寺を訪れてからまだ二週間を経ていない。12月10日、東京は武蔵野の吉祥寺を訪ねた。権藤圓立の足跡をたどってみたい、その思いに動かされた。
 すでに権藤自身が記し、また先行業績によって明らかにされているように、権藤、野口雨情、藤井清水の三人、人呼んで「楽浪園の三羽烏」は、大阪から東京へとその活動拠点を移す。それは、すでに吉祥寺に住所のあった野口の招きによるもので、大正14年には権藤夫妻が、ついで翌大正15年には藤井夫妻が、それぞれ野口の住まい近くの吉祥寺に転居したのである。
 吉祥寺時代の三人、あるいは三家族のこまやかな親交はすでに知られている通りだ。だが、私の関心は野口、藤井の二人が亡き後の権藤の動向にある。
 昭和19年3月25日、藤井が55歳で病死し、ついで昭和20年1月27日、野口が63歳で亡くなる。それ以降の権藤の活動を追った調査は少ない。それは野口雨情への関心が研究会ではより強く、野口との交流の中で権藤や藤井に関心が寄せられることはあっても、権藤ひとりに対する注視はそれほどなされてこなかったことによると思う。そうした状況下で、昭和20年以降の権藤に言及したものが、これまでに紹介した飛鳥寛栗や、古茂田信男等の業績である。
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/06/30/221818
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/03/27/065203
ただその二人の仕事にしても、私の関心を寄せる局面については断片的な情報でしかない。
 その局面というのは、権藤が曹洞宗と関わりを持っていたときのことである。この「とき」には二つあって、まず一つには、曹洞宗梅花流との関わりであり、いま一つは、駒澤大学との関わりである。時間的な前後関係から言えば後者が第一、前者が第二となる。

 第一の駒澤大学との関わりについては、この関係が梅花流との関係よりも先に存在していたというのはあまり知られていない。
 それは駒澤大学学生への音楽指導を権藤が勤めていた、ということである。すでに紹介していた権藤自身の文章を今一度引いておく。

http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/07/08/181610
 仏教青年伝道館の場合
 ここでの仕事は、たしか昭和6年から数年続いた。左の一文は東本願寺の施誌「十方」の昭和25年6月号に書いたものである。
 木魚に歌う
 花祭りが盛んに行われるように努力された安藤嶺丸先生の発願によって建立された仏教青年伝道館。浅草観音さまの山門を入って左一丁ばかりのところに、この辺には不似合いな白亜造りの堂々たるお堂。戦災で今は跡型もないがこの伝道館の当時の主事は小林良甫氏(後の故安藤良甫氏)であった。私がここの日曜講演に、仏教の歌唱指導を始めたのは昭和6年と覚えている。日曜講演は毎月各宗廻り持ちであった。私はその講演と講演の間で歌唱唱和の指導をしたのであった。
 その頃私は駒澤大学の音楽部にいっていた関係から、同部の学生達を動員し、聴衆席のあちこちに交じって私が音頭を取るとその通りに学生達が歌う。聴衆者達もそれに誘われて歌うという仕組みであった。歌詞は略譜を入れて印刷したものを一枚づつ来聴者に配った。そうすると中には丁寧に押し頂く人もあり、済んだ後でわざわざ貰いに来る人も幾人かあった。二三十分繰り返してやっていると大体うたえるようになるので、最後に皆起立して大声を出して、私も共ども歌って終わるのであった。楽器は小さなオルガンが備え付けてあったが、最初範唱する時と最後に一同唱和する以外は、すべて木魚を使用した。
 この木魚唱和は数年続いた。(以上、権藤圓立「聴覚による布教の仕方」『布教指導叢書第9輯・立体布教』昭和28(195312)刊行より)

http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/07/13/045010
  駒澤大学の和讃、詠歌
 昨今大学生の間に長唄謡曲義太夫、花道、茶道に精進するものが多くなったことが、たびたび新聞で報ぜられた。このことについては、私はいろいろ考えさせられていた折柄、駒沢大学で学生自らの発願によって、和讃、詠歌の研究(練習)が始められた。会員は今のところ三十名あまりで少しづつ増加していると聞く。主として宗務庁教化部の小堀博道師が指導されている。私も大学では以前永らく合唱団を指導していたし、先頃は三宝和讃、無常和讃などを作曲した関係から指導に行っているが、その真面目さ、熱心さ、行儀のよさには驚かされている。
 研究会は最初に、威儀を正し、合掌礼拝して開経偈を称えて始める。終わる時も亦合掌礼拝して廻向を称えて散会する。この道師は委員が順番につとめるという。まことに秩序だったやり方である。これらはすべて学生達の自発によって行われている。今までに習得したものは修証義和讃、承陽大師御詠歌、三宝和讃、無常和讃で、鈴鉦の使用迄には行って居ないが、やがて使用することになると思う。それに備えて、私は鈴鉦が詠参加の中で打たれるのは、その雰囲気を作るためばかりでなく、その拍子を的確にするためであること。拍子を的確にするためには、詠歌和讃をしてよく詠唱せしめるものであること。鈴鉦というものは、何がなしに詠唱にただ、ついて打ってゆくものではなく、詠歌和讃をして立派に詠唱せしめるという積極的な重大な役目を持つものであることを説いている。であるから、あるときは膝を打ち、手拍子を的確に打って、鈴鉦を打つところを会得してもらっている。発生発音音程などの練習は、楽器の都合上今は出来得ないが、都合のつき次第始めることにしている。なお進んでは、これらの学問としての研究をも目指して進めたいと念願している。
 かく学生達の積極的発願による和讃詠歌の研究は、大学としても、宗門に取りても、はたまた和讃詠歌界、引いては仏教音楽会にとっても慶賀すべきことであり、大に注目すべきことといわねばならぬ。(以上、引用典拠は上に同じ)

 上掲二つの文章はいずれも末尾に示した権藤の同じ論文からの引用である。
 このうち前掲の浅草・仏教青年伝道館の日曜講演における歌唱指導のエピソードは昭和6年頃のことと受け取れる。当時、権藤は駒澤大学の音楽部の指導を行っていた。そして部員である学生を動員して日曜講演来聴者を誘導し、効果的に歌唱指導をしていたというのである。
 後掲のエピソードは論文執筆時点の昭和28年(権藤自身の識語では同年の12月1日に脱稿)のことであり、この当時は権藤が直接教えているものではなく、文中に紹介している「和讃、詠歌の研究(練習)」は「宗務庁教化部の小堀博道師が指導」している。だが「私も大学では以前永らく合唱団を指導していたし、先頃は三宝和讃、無常和讃などを作曲した関係から指導に行っている」とあるように、音楽部との縁は続いているようである。また後にも触れるが、権藤による曹洞宗梅花流の『三宝御和讃』『無常御和讃』の作曲発表は、昭和28年である。
 もうひとつ、現在駒澤大学図書館の視聴覚資料として、
駒澤大學應援歌 : 應援歌 / 山田耕筰作曲 ; 北原白秋作詞 ; 飯田信夫編曲 ; 駒澤大學音楽部コーラス ; コロムビアオーケストラ .
 駒澤大學校歌 : 校歌 / 山田耕筰作曲 ; 北原白秋作詞 ; 飯田信夫編曲 ; 權藤圓立, 獨唱 ; コロムビアオーケストラ」
 資料種別 録音資料(音楽)
 出版者 [東京] : 日本コロムビア
 出版年 [19--]
 大きさ 録音ディスク1枚 : アナログ ; 25cm

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 というレコードが所蔵されているが、ここに見るように駒大校歌の歌声は、権藤圓立の独唱によるものである。駒澤大学図書館所蔵のものは、その発行年を未詳にしているが、同じものが国会図書館にも所蔵されており、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3568539
 そちらの資料目録によると、このレコードは昭和25年(1950)7月に発行されたものとわかる。
 以上三種の資料から考えると、権藤が駒澤大学音楽部の指導に関わったのは、その端緒ははっきりわからないが、昭和6年以前と考えられ、戦時中にはやや停滞したことが想像されるがその具体的経過は不詳ながら、昭和25年に至っても大学校歌を吹き込みするという事情は、双方の密接なつながりを裏打ちするものであろうし、梅花流との新たな関わりがあるいは再びの契機となって、昭和28年には音楽部との関係は続いていたものと考えられる。(続)