BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

吉祥寺の権藤圓立(2)梅花流と圓立

箱根・小涌園

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 第二の曹洞宗梅花流との関わりについては既刊の梅花関係資料に周知のところだが、あらためてそれに関する情報を整理しておこう。
  現行『梅花流指導必携・解説編(資料)』(以下、必携資料)(平成25年5月発行・改訂第4版)の「梅花流年表」によると、昭和28年2月10日の欄に、

釈尊霊場奉詠参加の折、会場となった箱根小涌園大広間に於いて権藤先生に野村師範が出会い、これが端緒となり、将来梅花流発展のため先生の指導を仰ぐことになる」とある。

 この箱根での出来事は、梅花流関係者の間では大きな出会いと受けとめられているようで、このように「年表」に記載される一時として捉えられている。これについてやや詳しいのは、『梅花 創立10周年記念特集号』第5号(昭和36年1月15日、梅花流正法教会総本部発行)に収録された「梅花流創立時を顧みて(座談会)」で、そこには次のようにある。

小堀(引用者注:小堀博道・宗務庁職員) 話は違いますが、権藤先生が梅花流に関係した因縁は昭和28年2月10日箱根に釈尊霊場奉詠があり、梅花流からも出席したのですが(野村師範以下十名、水島師範一行)その会場に権藤円立先生が各流の役員として出席しておりました。その帰路権藤先生と一緒になり梅花流御詠歌指導を依頼したのです。どうしてかというと権藤先生は当時駒沢大学の詠歌の指導者であったのでかげながら知っていたのです。権藤先生は会場にて自作のご詠歌を奉詠したのです。そして以来後、権藤先生は梅花流の音譜を採譜し、五線譜として本部に提出して、梅花流に関係する許可を得、それをチャンスに現在に至ったのです。

 ここに見る通り、権藤と梅花流との出会いは昭和28年2月10日とされている。箱根の「釈尊霊場奉詠」の具体的内容は未調査だが、ここで梅花流からつながりを求めたのは、あらかじめ権藤が曹洞宗立である駒沢大学と関わりを持っていたからと見てよいだろう。
 これ以後、権藤による梅花流詠讃歌曲の作曲が相次いで行われることになる。必携資料によってそれを示せば以下の通りである。
 
 昭和28年7月6日 「三宝御和讃」作曲 作詞・高田道見
 昭和28年7月6日 「無常御和讃」作曲 作詞・山内元英
 昭和29年4月20日 「無常御詠歌」作曲 道元禅師和歌集
 昭和29年10月28日 「坐禅御詠歌」作曲 道元禅師和歌集
 昭和29年10月28日 「花供養御詠歌」作曲 道元禅師和歌集
 昭和30年10月3日 「正法御和讃」作曲 作詞・大内青巒
 昭和33年2月10日 「観世音菩薩讃仰御和讃」作曲 作詞・赤松月船
 昭和33年2月10日 「観世音菩薩讃仰御詠歌」作曲 草山和歌集 
 昭和33年2月10日 「英霊供養御詠歌」作曲 道用桑偈 
 昭和34年4月29日 「聖号」作曲 
 昭和34年4月29日 「大聖釈迦如来涅槃御詠歌」作曲 久我尚寛
 昭和38年5月6日 「大聖釈迦如来成道御和讃」作曲 久我尚寛
 
 この間、権藤はずっと吉祥寺に住まいしている。そして後にやや詳しく触れるが、昭和36年11月3日に妻・はなよが死去、また昭和39年の12月24日には宮崎県延岡市・光勝寺住職の長兄・権藤正行が亡くなっている。いずれも権藤のプライベートにおいて重要な事項だが、これが梅花流との親密な関係の時期に起きていたことにも注意したい。