BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

吉祥寺の権藤圓立(3)旧野口雨情書斎・童心居

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 吉祥寺時代の権藤について関心を持った経緯は上述の通りだが、はたして漠然と吉祥寺の街に行ったとしてもどのようにその足取りを探ればよいのか。数年前まではその方途を考えあぐねていた。だがこれまで資料やフィールドなどいくつかの手がかりを訊ねてきた結果、次の二つの情報を得た。

 一は、権藤圓立宅の所在地。
 これまで紹介してきた権藤関係の参考文献からは、その東京時代の住所を吉祥寺としているだけで、詳しい住所まで記したものはない。だが、これは梅花流関係資料の探索から得たものだが、初期梅花流関係者同士が交わした書簡の中に、権藤が差出人となって当てた封書・葉書類を見出した。例えば大賀亮谿師範逝去の際に、子息・大賀渓生師に宛てた封書。また久我尚寛師範へ宛てた封書・葉書等である。これらには差出人の住所が権藤自身の手で記してある。昭和20~30年代のものであるから、当然現在の住居表示とは異なるが、これについては当該行政局(武蔵野市役所)へ問い合わせることによって難なく現在の住所が判明した。

 二は、野口雨情・藤井清水没後の権藤による野口・雨情の顕彰活動。
 三羽烏と称された野口、藤井、権藤だが、権藤を除く二人が終戦を迎えることなく相次いで逝去したことはすでに述べた。終戦後、権藤は新しい仲間と音楽活動を再開してゆくのだが、じつはこの二人との関係は途切れることなく続くのである。それは権藤による二人の、生前の業績の顕彰活動というかたちにおいてであった。その具体的な内容については後に述べよう。また藤井の顕彰についても後述することとする。ここでは、先行の業績によって野口雨情顕彰活動の一端を紹介すれば次の通りである。
「雨情会を支えた権藤
 昭和27年1月27日、雨情の七周忌の命日の日に、権藤円立、時雨音羽、古茂田信男らの発起で、消息の知れた東京近辺の雨情を敬慕する人々が相集まって、井の頭公園池畔の明水亭においてささやかな慰霊祭を行った。その席上、皆で雨情会をつくろうという話がもちあがり、これがきっかけとなって、同年6月27日、築地レコード会館で野口雨情慰霊祭が営まれた際(発起人代表中山晋平、島田弘喜)、雨情会をつくることと雨情詩碑を建立することが、協議決定された(中略)そして会長に中山晋平が推挙され、詩碑建立の仕事は中山、権藤ら四人に託され、井の頭公園池畔に新設された詩碑の除幕式が昭和27年11月27日に除幕式を迎えた。だが翌12月30日に中山会長が急逝、当初は会長不在のまま委員による運営を続けたが、古茂田の提案により新委員長選出の協議となり、権藤が推挙された。のち権藤が体調不良により会長職を辞し、理事制となるに及んで浜田広介が理事長となったが、権藤が療養より復帰し常任理事となり、以後、実際上は権堂が中心となって会の運営が進められた。のちこの体制は、浜田会長、権藤理事長という二本立てとなるが、権藤が運営の中心であることは変わらなかったという(古茂田信男『雨情と新民謡運動‐藤井清水・権藤円立らと共に‐』1989)。
 この雨情会の活動は多岐にわたるが、今回、吉祥寺へ行ってみようと思うきっかけとなったのは、生前の野口雨情の書斎「童心居」が井の頭公園内に移築されていることを知ったからである。
 これについて再び古茂田の文章を引く。
「なんといっても当時の雨情会として最も大きな仕事は童心居の移築問題であった。
 野口邸は終戦の前の年の暮近く疎開の際、大島秀一氏(主婦と生活社社長)に譲り渡して行ったものであるが、戦後12、3年経ってから、雨情会に好意を持っておられた大島氏が童心居を雨情会に無償で提供してくれることになった。(後略)この童心居は、大正13年頃雨情が庭の一隅に建てた書斎で、当時その心境を権藤に宛てた書簡のなかに次のように記している。
 〈(前略)先頃より小庵を結んで脱俗の生活を発心致し宅地内へ四畳半一室の家屋を建てはじめましたので毎日職人たちと働ひてをりますので御無沙汰を致しました。小庵は今月一杯に出来上がります。石油コンロで炊事も出来て、家族とは没交渉のやうに工夫致しました。小庵の名を童心居とつけました。こん後はこの童心居に起臥して自信ある作品を書き残す考へで御座いますが、書き残せるかどうかは疑問であります。
 とにかく自分の日常生活を浮き世から離れて、少しでも心長閑に暮らしたい私の発心であります(後略)〉(書簡は5月18日付)
 (中略)しかし譲りうけても金の無い雨情会としてはその保存の場所と移築日のことで困ってしまった。それでも権藤を中心に土屋忠司、古茂田で協議を重ね、関係方面に相談依頼の結果、移築費の350万円は武蔵野市で負担してくれることになり、また、場所も井の頭公園自然文化圏内に決まり、昭和34年10月13日、めでたく移築完成した。
 そして11月1日、大島秀一氏、荒井市長、木村園長、野口夫人、等関係者の列席を得て、童心居前に於いて「童心居移築完成記念会」を催した。このとき権藤は「磯原節」と「土投げ唄」を献唱した。当日からしばらくの間、童心居に雨情の写真、童心居の額、色紙、掛軸などを飾ったが、これらの品の持参、持帰りなども権藤ひとりで行った。」(古茂田信男、前掲)

 ここに見る通り、童心居は野口雨情の施設に外ならないが、そこには雨情会諸氏の思い、就中権藤自身が親しく手をかけた痕跡があるに違いない。そう思ったのである。
 さて、一で述べた権藤の旧宅跡は現在すでに住む人が変わっているが、吉祥駅北西側、成蹊大学の近くにある。また二で述べた野口雨情の旧書斎・童心居の現在地は井の頭公園・自然文化園内(動物園)の一角にある。地図で見るとどちらも吉祥寺駅から一キロ以内。両方をつないで歩いても二キロに満たない。新年を迎えると野口・藤井・権藤のお互い三つの家を交互に飲み歩く「堂々めぐり」をしたという道筋も、この界隈に違いない。先ずは童心居をめざそう。
 前夜は吉祥寺駅側のホテルに泊まり、自然園・動物園の開園時間を見計らって宿を出た。

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 井の頭公園の樹々はまだ終わりかけの紅葉をつけている。まだ早い時間であることとすでに12月であることからか若い人の姿は少ない。ウォーキングにいそしむ中高年世代の人達が颯爽と行き交う。

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 吉祥寺通りを立体架橋で越え終わったところに井の頭自然文化園(動物園)がある。子ども連れのお母さんたちが何組か。動物たちももう園舎の中に入っているものが多いようで、園内は閑散とした空気が満ちている。入り口から左手に進む。冬の木漏れ日を浴びて童心居があった。

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 二方を瀟洒な庭に囲まれているが、移築物であるからこれは後でこしらえたものだろう。開放中らしく縁側から中へ入る。床の間に「からすのうた」の掛け軸。

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 「しゃぼんだま」の額。

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 これらのしつらえを、せっせと権藤がなしたのかと思う。

 この部屋に、この庭に、雨情会の会員が集ったようすを。この建物がまだ旧野口邸にあった頃、ここを訪れた権藤や藤井等と談笑した野口のようすを、想う。

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 園内には子どもたちの遊具広場が設けられていた。それは童心居へ向かうすぐそばにある。不世出の童謡作家・野口の子どもを見つめるまなざしを想像してみた。