BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№63「いかがわしい書物」

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よこみち【真読】№63「いかがわしい書物」

 このたびややカタイ内容である。めんどくさい人はスルーでどうぞ。
 今回の設問、答えに引いているのは「聖徳太子の『礼郊本紀』(旧事本紀第五十三)下巻」というもの。
 この書、『先代旧事本紀大成経』(以下、大成経)という全72巻からなる大冊であり、画像に示したように、このうちの一章(本編では第53巻としている)が『真俗』の引く所となっている。

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 じつはこの書、かなりのいわく付きの本で、江戸時代、この書の出版に関わった人物は流罪となり、書冊は発禁、版木は破却という処分を受けている。この書に関わるガイダンスにはキワモノ的扱いをするものも少なくないので、なるべくオカタイものから選んでその説明を挙げておく。

旧事大成経(くじたいせいきょう)
 近世初期、『先代旧事本紀』を摸し、聖徳太子撰と詐称した、神儒仏一致に立つ神道書。七十二巻・三十巻の二本ある。前者の前半(三十八巻)の神代本紀以下は記紀流の史書の体裁、後半(三十四巻)経教本紀以下は教学の書。本書は、志摩国伊雑宮(内宮の別宮)こそ天照大神の本宮であるとし、記紀などの所伝と違いきわめて宗教味豊かで教学的であるから多くの信奉者を得、明治の神仏分離後は僧侶の一部に尊信者が目立つ。従来、長(永)野采女・釈潮音・伊雑宮祠官らの寛文年間(一六六一―七三)以前の偽作とみられているが、すでに流布の信仰をまとめたものともいえる。采女は元和二年(一六一六)上州簑輪城主の長子として生まれる。神儒仏に通ず。特に「物部之家伝」(物部神道)を承け「吾国之道業」を究め、密授の書を学び、神史・経教を説く(『長野采女伝』)。貞享四年(一六八七)死去。潮音は寛永五年(一六二八)肥前国小城郡に生まれる。禅宗黄檗派僧。中年、上野国に移り、館林侯の請で万徳山広済寺を開く。神宮祠官の訴え(大成経事件)で流罪。元禄八年(一六九五)美濃国にて示寂。
吉川弘文館国史大事典』より)

 つまり、先行してあった『先代旧事本紀』という本と同名のものを、聖徳太子が著したものだという触れ込みで、あたかも新たに発見した如く世に出したというわけだ。こうした「いかがわしい書物」であるのに、なぜか周囲・後代への影響は甚大で、発禁以後もそれには関わらず、この書の所説に依るものは仏教諸宗にかなり多く、いまだにその全容が明らかになっていない。かくいう私も、この書の研究が年来のテーマなのだけど、その輪郭さえなかなかつかめないでいる。おそらくこの書については再び話題にするだろうから、ここでは本編「年忌の追福」説との関係を焦点にして話を進めよう。

 本編で子登自身が言うように、「私に曰わく、已上はある人の引くを見て写すものなり。この書を求めて詳らかにすべし」とあるから、子登自身は大成経を実際には見ていないようだ。「ある人の引くを見て」とは、名前は明らかにしていないが、誰か他の著者の本にこの文章が引いてあったものを、ここに書き写したというのだろう。さて、それは誰だろう。こんな文章がある。

「我が豊聡太子の云く、
 弔奠之儀第七日・第二七日・乃至第七七・第百箇日・一周年・第三年・第七年・第十三年・第十七年・第二十三年・第二十七年・第三十三年は天子より庶人に迄、一同にして差う所無し。第四十年・第五十年・第六十年は天子より諸士に迄一同にして、子亡ずるときは孫代わる。第七十年・第八十年・第九十年は天子より九卿に迄一同にして子孫曾孫に及ぶ。第一百年・第百十年・第百二十年は天子より三公に迄子孫曾孫に及ぶ。第百三十年・第百四十年・第百五十年は天子より諸王にまで、第百六十年已下は唯だ天子のみ之を修す。
 天子と雖も大曽祖已上大曽祖の日を以て一同に之を修す。之を總奠と謂う」

 豊聡太子とは聖徳太子のこと。その引用箇所は若干ずれるけど、この文章が『真俗』と同じく、大成経を典拠としていることは疑いない。
 この文章の作者は、曹洞宗の卍山道白(1636-1715)であり、この書は卍山の著書『禅餘套稿』(1714刊行)である。この文章は同書の「年忌祭奠考」の一節だ。ちょっと思い出していただきたい。『真俗仏事編』は、その序文に「享保丙午(十一年、1726)の秋 浪花生玉の沙門 子登 筆を真蔵密院に執る」と記されていた。
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/05/05/082311
つまり『禅餘套稿』刊行後の12年後である。
 たった一つの由来を書くためにも、諸書を博捜する子登である。書名自体は明らかにしていないが、この卍山の書に目を通していた可能性は極めて高いと言えるだろう。
 この引用に続けて卍山は次のように述べる。

「右三年從り三十三年に至り、上下一同三七の数を以て、上下の分に随て、大祭奠を設けて数疏の中位を折衷して以て之を行なわしむるときは、則ち不敬怠惰の罪を免れるなり。毎年毎月の忌日に至ては、則ち常祭之を修するの義、其の中に在り。第四十年已下、其の位に素(したがっ)て等を踰(こ)えざらしむるは禮なり。官には針をも容れずと雖も、子孫孝を存して密かに供養を修すは、私に車馬を通ずるも、また妨ぐべからず。但だ僧家の祭を修するは、王政の拘わる所に非ず。年年釈迦慈父誕生・涅槃の祭を修し、遠祖の師長の年忌月忌の供を修するは禮なり。卻(かえっ)て不修を以て禮に違すると為すは知りぬべきのみ」。

 これは、卍山が曹洞宗における年忌法事の大切さを強調するくだりである。卍山がここで依拠しているのは、かの「いかがわしい書物」『先代旧事本紀大成経』なのである。
 
 さて、『真俗』の引用する大成経の文章が、直接には卍山の著作を引いているらしいことを指摘した。これに続いて、卍山、ひいては曹洞宗と大成経の神道説がどう関わるのか、そのことの周辺への影響はどうなのか、かなり大事な問題が続出するのだけど、すでに「よこみち」で扱う範囲を超えている。この後の問題は場所を変えて展開してゆくことにしよう。

 そうそう、本編で終わりに紹介している『釋門正統』の件だけど、たぶん巻三(続蔵130、p. 385, b10-15)の所説だと思うので、興味ある方はどうぞ。