BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№67「サバ」

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「死んだ人に食べ物供えてどうすんだよ。どうやって食えるって言うの。食えるわけないだろ。ほら見ろよ、いつまで上げといたって全然減るわけないんだから」

 こういう御仁は古今たくさんいたのだろう。かしこい人間は霊魂など信じないというのだろうか。智慧ある者は霊魂を信じることの大切さを知っていると思うのだが。

 幅広いテーマを採り上げる『真俗仏事編』において、同じテーマを再度扱うことは少ない。今回はその一つである。№66「霊供」、これにつづいて№67「霊供の本拠」である。本編№67冒頭の質問者とはただいま紹介したようなことをのたまう御仁であったのであろう。編者・子登の弁「彼の霊供無用にせよと妄説せる人」という言い方には、子登のこの人に対する苛立ちが含まれているように思うのだがいかがだろう。そこに引く『素婆呼童子経』の所説が霊供の決定的経証だと子登は言う。じつはこれと同じことを私たち禅宗の僧侶は日常的に口にしている。おそらく禅宗以外の方々も同意のことを唱えているはずだと思う。
 子登の引くのは、与えられた飯を五つに分けた内の一つを「七世の父母及び餓鬼衆生に施し」と言うところ。
 禅宗で唱えるというのは、食事をいただく時の偈文にある、
「上は三宝に分かち、中は四恩に分かち、下は六道に及ぼし」というくだり。六道は言わずとしれた、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六趣世界。そ、もちろん他の偈文、
「汝等鬼神衆よ、我今、汝に供を施す。この食、十方に遍くして、一切の鬼神と共にせんことを」
「我がこの鉢を洗いし水は、天の甘露の味の如し、鬼神衆に施し与えて悉く飽満を得せしめん」
等も同じこと。この世の食物が、あの世のだれかに届くという観念という意味ではいずれも同じだ。
 この連載でも何度もいろんな表現で触れてきたが、「この世とあの世はつながっている」という考えが仏教のベースにあると思う。というよりもこれがベースにないものとはほんとにあるのだろうか。この世はこの世でお終い、次に何かの世界が待っているなんてあり得ない、というセリフを聞くことは確かにあるが、それは観念的に作り上げただけで、それが実際の考えのベースになっている人などあるのだろうか。
 「霊供」や「霊供の本拠」を読んであらためて思うのだけど、「彼の霊供無用にせよと妄説せる人」を厳しく批判しようとする子登のような言い方は、霊供そのものの根拠を知らしめようとしていることはもちろんだけど、「この世とあの世はつながっている」という観念を疑うことの過ちを批判しているのだと思う。くどいけど誤解のないように言えば、〈「この世とあの世はつながっている」という考え方の大切さ〉を知らずに文句つけている人を批判しているのだと思う。