BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№68「飲み方上手」

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 お檀家さんのご法事に伺って設斎の場でお酒を頂戴する、ということが一年に一~二度ある。まわりのお坊さんの話を聞くと、これは少ない方らしい。ほぼ毎回ごちそうになってくるとか、中には「つい遅くなって結局そこの家に泊まって、翌朝仏壇拝んでから帰ることもあるぞ」という強者の先輩もいる。もっともそれらはお檀家さん側からの、和尚さんにゆっくりしてもらいたい、という希望に応えてのことと聞いているので、お檀家さんにとってはうれしいことらしい。
 本編の編者・子登はきまじめな性格らしく、人の願いに応じてそれをかなえてあげようというのは菩薩の行だから、お酒の接待も施す側としては罪にはならないと言いつつも、「これは在家の人に言えるのであって、出家は決してそうじゃないぞ」と釘を刺す。
 かつてまだ喫煙が習慣であった頃、お斎の場で居合わせた法要客に「和尚さんがタバコ吸ってもいいんですか」とたしなめられたことがあるが、きっと盃やビールグラスを手にしていても、同じように「坊主のくせに」と思う方はいるのだろう。
 だが多くの場合は、「いや和尚さんだってたまには我々と一緒に盃交わして胸襟開いた話をしましょうよ」と勧められることが多いのではないだろうか。だから私などはそのあたりで物足りなく思わせているかもと反省している。
 飲酒がなぜいけないのか。この話は世間にも我々の業界にも耳タコというほど蔓延しているので、ここではやめておこう。その手の話はこれまでにもいく度か採りあげてきた。
 お酒の隠語「般若湯」に関わること
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/09/19/210741
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/09/20/145237
 日本酒好きなスリランカのお坊さんのこと
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/04/06/044856
 お酒嫌いのカタブツな法印さんのこと
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/07/18/134923

 だからここでは飲酒に対して寛容な例を見てみたいと思う。
 本編№68の終わりのところで、波斯匿(はしのく)王の末利夫人にお酒を許したことがあるという話があった。その内容は載せていなかったので、典拠として示されたいた『法苑珠林』の話を紹介しよう。
 これは『法苑珠林』巻93「飲酒部」に出てくる話だ(大正蔵53,971a)。

 ある日、波斯匿王が猟に出かけた。無中で獲物を追っているうちに腹が減り、随伴の料理人に食事を命じようとしたら、その日は料理人が来ていないという。いらだった王はすぐさま宮殿へ戻り、すぐに食事を持ってこいと怒鳴った。だが今日は王が遊猟のため不在と思っていた料理人・修迦羅は、突然のことに、今は食べるものがありません、すぐに作りますと答えたが、あまりの空腹に堪えかねた王は「修迦羅を殺してしまえ」と命じたのだった。
 だが国内随一と評判の料理人・修迦羅、家臣達は王の命令に困り果てた。
 時に王妃・末利夫人、この話を聞いてはなはだ愛惜に堪えなかった。そこで王の空腹を満たすために、すぐさますばらしいごちそうと美酒を用意させ、自分は沐浴して香水(薫香?)をつけてきらびやかな粧いをなし、多くの妓女を従えて、王の所へやって来た。
 王は艶やかに着飾った夫人と、妓女たちの捧げる美酒美食を見て、それまでの怒りの心など消し飛んでしまった。
 王は述懐する。私がなぜこのような心持ちになったかというと、未利夫人は、日頃から五戒をしっかりと守り、酒などは決して口にしなかった。それが私には不満だったが、今日はそんな彼女が自ら酒肉をもち来たり、一緒に楽しもうというのだから、これに応じないわけはないだろう。
 そこで王は、夫人とともに酒肉や妓楽を楽しみ、歓喜のうちに怒りの心など消えてしまった。夫人はそのようすを見て、すぐに使いを遣って外臣に料理人を殺すことをやめよと命じた。
 (そのことを知らずにいた)王は、翌朝目覚めてから昨日の行いを深く後悔し、朝食も取れず沈みきっていた。夫人が王に問う「なぜそのように沈んでいるのですか」。王が答える「私は昨日、空腹のあまり怒りに目がくらんで修迦羅を殺してしまった。国中にあれほどの料理人はいないというのに、なんということをしてしまったのか。後悔してもしきれないのだ」。すると夫人が笑ってこう言った「その人なら無事ですよ。心配しなくとも大丈夫です」。王は聞いた「うそじゃないのか」。夫人が答える「ほんとうです。うそではありません」と。そこでは王は侍者に命じて料理人を呼びだすと、修迦羅はすぐにやって来た。それ見た王は大いに歓喜して、愁いの気持ちを消すことができたのである。

 このエピソードは殺人という重罪を犯すことを回避するために、あえて飲酒という軽罪をなしたものとして、末利夫人の行為は仏の許すところとなっている。仏典の中で、こんな人間的なやりとりに出逢うのは楽しい。

 ところでわざわざ『法苑珠林』を引いてきたのは、この話だけを紹介したかったからではない。じつはこの話の前にある文章が、私のもっとも紹介したい所である。以下は、仏と祇陀太子との会話である。

 世尊、告げて曰く、汝、酒を飲む時に、何の悪をするや。
 祇陀、仏に白(もう)す、国中の豪強、時々に誘いあって、酒食を持ち寄り、ともに相い娯楽し、以て歓楽をいたす。自ら悪となること無し。何を以ての故に、酒を得れば戒を念(おも)う。放逸無きが故に、酒を飲みて悪を行わず。
 仏の言わく、善哉善哉。祇陀、汝今すでに智慧方便を得たり。もし世間の人、よく汝がごとき者は、終身に酒を飲むとも、何の悪か有らんや。かくのごとく行ずる者は、すなわちまさに福を生ずべし、罪有ること無し。もし人、酒を飲みて悪業を起こさざれば、歓喜の心の故に、煩悩を起こさず、善心の因縁。善の果報を受く。
 
 原文(世尊告曰。汝飮酒時爲何惡耶。祇陀白佛。國中豪強。時時相率齎持酒食。共相娯樂以致歡樂。自無惡也。何以故。得酒念戒無放逸故。飮酒不行惡也。佛言。善哉善哉。祇陀。汝今已得智慧方便。若世間人能如汝者。終身飮酒有何惡哉。如是行者。乃應生福無有罪也。若人飮酒不起惡業歡喜心故不 起煩惱。善心因縁受善果報。)

 飲酒はもろもろの罪科の引き金になるとはよく言われる。だがその引き金さえ引かなければよいのだろう。罪科とはたとえば殺・盗・淫・妄語・説過・自讚毀他・慳法財・瞋恚・謗三宝(以上は曹洞宗の一般的な十重禁戒※ただし酤酒を除く。宗によって若干の違いがある)。具体的に敷衍しなくても充分わかるはず。上の文章、肝心なのは「酒を得れば戒を念(おも)う」というところだ。
 おそらく子登はこの文章を知っていて、あえて『真俗仏事編』の中に引かなかったのだと思う。なぜかと言えばこの文章は、お酒だってこうして上手に飲めばお釈迦さまも許してくれるんだ、という経証になりかねない。すると図に乗った輩が、またぞろ無反省なままに酒を飲み始めるだろう。だからきまじめな子登は、こんなの世の中に弘めたらとんでもないことになる、と警戒したのだろう。
 というわけで私の立場からは、力を込めてこの文章を世に弘めたいと思う。みなさん、上手な飲んべになりましょう!