BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】 №69 「托鉢の僧に施す」 巻三〈祭礼部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号35

 問う、「世俗、忌日には托鉢の僧に施すを務めとす。功徳、勝れたるや」。
 答えて曰く、「一掬(にぎ)りの米は小財なれば、施し易うしてしかも積もれば巨(おおい)なる福となる。この修善を以てその日の亡者に廻向するものなり」。
 ○『珠林』(五十四)に、『智論』を引いて云く、
「仏、舎婆提(しゃばだい)城に入て乞食したまう。婆羅埵逝(はらだせい)と云う婆羅門あり。仏のたびたび来て、食を乞いたまうえお見て念(おもへ)らく、“この沙門何故に度々乞う、債(おいもの)を催促するが如し”と心で罵(ののし)りけり。
 ここにおいて仏、彼の婆羅門が心を知りたまいて、軈(やが)て偈を以てその功徳を説いて言く、“時雨数々(しばしば)堕つれば、五穀数々成ず。数々福業を修すれば、数々果報を受く。数々生の法を受く、故に数々死の法を受く。聖の法を数々成ずれば、誰か数々の生死あらん”。この偈の意は、一滴の雨は少しなれども、数累(かずかさ)なれば、遂に五穀成就するに至る。今もまたかくの如し。一掬(にぎ)りの米は小(すこし)なれども、度々積もれば福業成じて終には生死を脱するに至るとなり。
 ここにおいて婆羅門、仏の我が心を知りたまうことを愧(は)じて、軈て鉢を取りて舎に入り、美食を盛て仏に奉る。
 その時に仏言く、“我が偈を説くに依て、汝、恥じて施しす。然ればこの食は信施に非ず、不浄施なり。故に受けることあたわず”とのたまう。
 婆羅門の曰く、“然らばこの食、誰にか与うべき”。
 仏、言く、“天中にも、人中にも、この食受けるものなし。無蟲の水の中に棄てよ”。
 ここにおいて婆羅門、この食を水中に投げければ、水たちまちに沸きて、煙火熾(さかん)に上り、あたかも大熱湯を探るがごとし。婆羅門、この神力に駭(おどろ)き怖れて、仏を礼し、懺悔して出家受戒す」。
 ○私に曰く、これ浄施に非ざる故に、たちまち火となって滅せり。故に当世の男女、自ら省みるべし、些(すこし)の施をなすとも、名聞に罹(かか)り、あるいは他に誇る志ならば無益なること、かくのごとし。