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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№69「マジメだけじゃ、つまんない」

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今では托鉢と言うと、年の暮れに一回、若いお坊さんたちと「歳末助け合い托鉢」ののぼりを掲げて街頭を歩くことくらいしかなくなった。それも「若い」を通り過ぎた身になってくると、寒さとおっくうさで足遠くなってきた情けない状態だ。そんな怠惰な私のまわりでは、今も「寒修行」と称して、寒中托鉢を敢行しているお坊さんが何人もいる。まったく頭が下がる。
 学生時代、西麻布の大きなお寺の学寮に過ごした。二つ上の先輩に、在家から出家された方がいて、その人は年中托鉢に出かけていた。長期休業の時には電車で遠方に出かけ、商業宿や野宿をしながら托鉢。在寮中も時間をみつけては都内各所へ出かけていた。托鉢でいただいた金銭は交通費や生活に用立てていると言っていたけれど、それで間に合っていたのかどうかわからない。種田山頭火に私淑していたようで、自分でも行乞先でノートに随想のようなことを記していた。
 その先輩の手ほどきで、西麻布から渋谷を経て三軒茶屋までの道のりを托鉢に歩いたことがある。もういく度か歩いたような気がするが、憶えているのはその時のことが主になっている。都会の喧騒の中を僧形で通り抜けて行くのは、なにかのデモンストレーションでも連想させて、おもしろくも思った。だが通り抜けて行っては托鉢にならない。軒並みを連ねている店の門先で立ち止まり、編み笠を目深に被って読経する。托鉢中は、通行人と目を合わせたり、自分の顔を露わにしたりするな、と教えられたように憶えている。時々、ポケットや財布から硬貨を出し、チャリ、と入れてくれる方もある。読経の途中で店員から「おい、よそでやってくれ」と云われたことも何度かあった。往復10キロ以上の道のり。昼過ぎに出て、夕方くらいまでかかったかなと思う。もどって来て応量器にいただいたお金を数えると、二千数百円だった。

 それにしても本編に紹介されている『法苑珠林』所引の『大智度論』のエピソードは手厳しい。当初、乞食の姿に悪態をついていたバラモンが、釈迦の教えにより改心し、あらためて施した美食を、釈迦は「不浄施なり」とバッサリ。人天の中にこれを受ける者はいないから、虫も住まない水の中に投げ入れよ、と言う。そこまで言うかい?と思うのだが。

 子登がコメントするように、「浄施に非ざる故に」「すこしの施をなすとも、名聞にかかり、あるいは他に誇る志ならば無益」という趣旨は、いちおう大義としてはわかる。
 行乞についてその心得を説くものは少なくない。

by『法集経』「乞食三意」
 一、珍味を貪らずして美悪均等
 二、我慢を破せんがために貴賤同じく遊ぶ
 三、慈悲平等にして大いに利益す

by指月慧印『行乞篇』
 行乞は理事等の論に非ず。仏祖の正伝骨髄なり。いま末法時世の人師、その習俗悪しきをもて、真行を卑劣野体なり、とそしりて十指ともに動ぜず。一歩わずかに移さざるを、高徳大道なりと思えるは、愚暗の甚だしき、実に無道心なるゆえなり。

by『仏遺教経』
 汝等比丘、まさに自ら頭を摩ずべし。すでに飾好を捨て、壊色の衣を著し、応器を執持して、乞をもって自活す。自見かくのごとし。もし驕慢起こらば、まさにはやくこれを滅すべし。驕慢を長ずれば、尚世俗白衣のよろしき所に非ず。いかにいわんや出家入道の人、解脱のためのゆえに自らその心を降してしかも行乞するをや。

 言ってみれば、自分の慢心の発生をモグラたたきのように打ち滅ぼし、やつした自分の姿に対する他からの誹謗(自らの羞恥という慢心もあり)への忍辱行として、貴重な行なんだということだと思う。
 たしかにごもっともだ。

 だが、こんなことがある。
 托鉢の途中、道ばたで屋台の出店を営んでいたおばちゃんが、できたばっかりの焼き饅頭くれた。おっさん(和尚さん)、今日は寒いねえ、これ食べてちょっとおやすみしな、と満面の笑顔を添えて。やあ、ありがと、おばちゃん今日も元気だね。うわ、おいしそ。じゃ、ちょっと呼ばれるよ。と編み笠を脱いでそばにすわり、焼き饅頭をぱくっ。しばしの歓談。で、ごちそうさん、ありがとう、と立ち去る。
 並み居る仏教文献の行乞に関する「おさとし」が、もっともだけどなにかオカタイ、そして物足りないと感じるの、こうした点が感じられないからじゃないだろうか。仏教と言っても所詮は、人間の考え出した人間に対する教えに過ぎない。人間味ってだいじだよね、と思う。
 もっとも、こんな教えがはるか時代を経て伝わってきたのは、資料の文字面はきっちりタテマエで通しているけど、これを現場で支えてきたのは、きっとここに紹介したような「おばちゃん」「おっさん」なのだと思う。
 「さびしからずや道を説く君」だなんて、カタブツさを装いつつも、しっかりやることやってきたから今まで続いてきたんだよね。