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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№73「慎独」

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 大阪の陽松庵というお寺に伺った時、その寺院の中興である天桂伝尊という禅僧の木像を拝観した。曹洞宗では江戸時代の傑僧として知られるその人。その性すこぶる峻厳にして、おのれの目にかなわぬ相手は徹底的に痛罵した。宗乗眼も孤高にして、世にその宗風を呼んで「天桂地獄」の評がある。
 山主の話しによれば、生前の伝尊が仏師を招き自らの姿を造らせたところ、「そんな生っちょろい顔ではない」と怒鳴りつけて造り直させ、二作目を持って行っても「なんだそれはっ」と怒りの形相。その顔を模した三度目の作で漸く認めたという。して木像の眉毛は自身の眉毛を植毛したという。木像の風貌、相対した者に活人のごとき威圧感を与える。両目両眉がつり上がり、対する者に怒鳴りつけられているような思いを抱かせる。残念ながら手元にその写真がない。木版の頂相では充分にその迫力が伝わらず残念に思う。
 各地の古刹に拝登すると、その寺院ゆかりの開山や祖師達の木像が祀られていることが多い。近年の仏具店が用意した量産タイプの木像は別にして、古い木像を観るのが好きだ。一体ごとにその風貌が違う。恐らくは生前のその祖師をよく知る人が造った、あるいは造らせたと思われる木像がほとんど。その人の表情、個性、声色までが臨場感を以て伝わってくる。伝尊の像はその一例。
 本編では形像を造ることが「弟子の道」であるという。師に対する法恩・孝道の情を示すことになるのだろう。だがもっと直接的な言い方をすれば、「そばにいて見ていてほしい」のではないだろうか。

〈心地覚心〉

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 生き写しの如きリアルさを以て造られる形像に込める子弟の思いは、「師のまなざし」を失いたくないということじゃないかと思う。

一休宗純

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 「慎独」という言葉がある。人は独りになった時が最も危うい。私の中には慢心という決して根こそぎには剔抉し得ない悪癖がある。私の中にあっていつでも表に出る隙を窺っている。情けなく愚かなことに、私自身ではその慢心を御しきれない。それを厳しく監視してくれるのが師のまなざしだ。この点に限っては師とともに居れば安心だ。私の中の悪癖がついに露出する機会を失ってしまう。しかし師の目の届かぬ所ではまたぞろこの蟲がうごめき出す。だから独りは危ない。師のまなざしをそばに置きたいのはそのためだと思う。生けるが如き風貌を求めるのは思慕の情だけではないと思う。

〈中巌円月〉

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 私にも師と仰ぐ人が幾人かいた。その人たちはすでにこの世にいない。形像もこしらえていない。慎独という言葉をかみしめている。