BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№75「快楽の追求」

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 料理とは、本編では、獅子座という家具らしきものをこしらえることだった。
 また引き合いにご登場いただいた、あでやかなるハンコック様が言ったのは、相手を意のままにあやつり仕立て上げる、という意味だろう。
 食材の調理、モノのこしらえ、ヒトのこしらえ。このように料理という単語意味が、もともとの振れ幅とほぼ変わらずに今日でも使われているのは珍しいのじゃないだろうか。その意味では「料理」という言葉に関わる漢字文化圏の人々の感性は、この長い歴史の間でそれほど変化しないものの一つだと言ってよいのかもしれない。(もしかすると cook にも同様のことが言えるのだろうか?)
 今たまたま、食・モノ・ヒト、と言ったが、これら「ものづくり」に共通することは、「つくる快感」じゃないだろうか。あるいは「仕立て上げる快楽」。食材、道具、芸術作品は言うまでもない。だがこと「その快楽」においては、ヒトを意のままに造りあげる快楽に勝るものはないように思う。それは時に、調教と呼ばれ、あるいは教育と呼ばれる。たとえの造りあげて目指すところが、世間的に非難されようと、賞賛されようと、その違いは「仕立て上げる快楽」自体にとってはどちらでもよいことだ。
 そしてこれが意のままに出来ないときの反応も共通している。ケーキであれば捨てたり、陶芸作品であれば窯出しの時に壊したり、ヒトであれば撲ったりなじったり。中には壊してしまう場合もあるらしい。仕立て上げる快楽は、それが達成されることによって全うされる。
 このように、料理を「つくりあげる快楽を追求すること」と考えてみると、いろいろ気づくところがあっておもしろい。そのスタイルや出来上がりの作品は別にして、ここには人間のごく基本的な、言葉を換えて言えば根源的な性向があると言えるだろう。
 もとの意味の振れ幅が、時を経てもさほどに変化していないと言うのは、そんなところに来由するのかもしれない。
 私、家にいるときはほぼ朝昼晩の三食をまかなっている。いわゆる「おさんどん」というやつだ。一緒に食事する家族は五人。私以外はみな女性。口の悪い友人は言う、やらされているとか、力関係の結果だとか、日頃の罪滅ぼしだとか。人聞きの悪いことは言わないでいただきたい。日々、人間の根源的な快楽を追求しているのである。