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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№77「ツンデレ」

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 本編の冒頭、なかなか意味深長かつ場合によっては耳が痛い言葉だ。
「食を受けて施主に対して挨拶するに、取捨あるべし。下り諂(へつら)うはなお誡しむべし」
 「取捨あるべし」というのは「時によって善し悪しがある」というほどの意味だと思う。「食」だけに限らない。
 たとえば僧侶個人や、一つのお寺が、ある施主から意外なほど多額の寄進を受けた場合を想定してみよう。ここで誡められている「諂(へつら)い」あるいは「媚び」、施者の側の「驕慢」など、いろんな汚点が兆してくるかも知れない危うい場面だ。寺院に限らず、多額の寄贈などをすると、その贈呈の場面が新聞・テレビなどで流れることがあるが、あげる人と、いただく人、そしてそこに交わされるモノ、という三つが垢にまみれぬ状態を維持するのって、なかなかむずかしいことだと思う。だからと云って、「あ、ども」と、こともなさげにしらっと受け取るのもいろんな意味でむずかしそうだ。
 そんな禁欲的な態度はどの仏教教団にも共通のことと思うが、たとえば曹洞宗には次のような話が伝わっている。
 道元が鎌倉に招かれた。執権・北条時頼の招聘である。のちに建長寺と名づけられる大伽藍の構想あり、ついてはその寺の開山になってほしいとの願い。私には越前の山奥に小さな寺がありますから、と断る道元。じゃ、せめてこの土地の寄進だけでも受け取ってくだされ、と引き下がらぬ時頼。それも要らぬ、と鎌倉を辞去した道元だったが、供につれていた僧の一人、玄明がその寄進状をひそかに持っていた。永平寺に帰ると、その寄進状をあたかも道元と自分の手柄のように周囲に吹聴する玄明。それを耳にした道元、「コノ喜悦ノ意キタナシ」と言い捨て、すぐさま玄明を破門、衆僧に命じて、修行僧の生活場所であった僧堂内の、玄妙にあてがわれた牀(俗に“坐して半畳、寝て一畳”と呼ばれる坐禅や就寝に用いる場所)を、切り取り、さらにその下にある石畳を壊して、下にある土まで掘り出して寺の外へ捨てたという。少々度が過ぎるかと思うほどのエピソードだ。

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 ものもらう、というのは厄介なことなのである。


 旧友にスリランカ人のお坊さんがいる。以前、お酒のことで紹介した人だ。
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/04/06/044856
 出身はスリランカだが、自国で僧侶になった後、タイやビルマ(現、ミャンマー)など東南アジアの国々で各国の仏教修行を経て、日本の曹洞宗寺院の弟子になった。去年までスリランカの大学で日本や仏教のことを教えていた。その彼と西麻布の寺院境内にある学寮で一緒の暮らしをしていた頃、聞いた話である。
 托鉢の話は前にふれたが、
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/01/17/101801
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/01/20/124119
 彼がタイ(ビルマ?フィリピンだったかも?)でお坊さん修行をしていた時も、托鉢は毎日のようにしていたという。でそこでは道を托鉢してゆく時、何かしらの施しを受けても、決して施主に対して「ありがとう」とは言わないのだそうだ。頭を下げて謝意を示すということもめったにしない。人々が好きでしてくれることなので、それをただ受けるだけだと言っていた。実際には本編にあったような「呪願」を何か言うのだとは思うけど、その話以来、テレビや映画でそんな場面を見ると、なるほどお坊さんたちは信者の寄進に対して存外に「そっけなく」見える。そんな違和感を感じるほど、日本の場合は情の残余があるのだろう。
「でもそれだとお坊さんと一般の信者さんの間って、けっこうドライな関係何じゃないの?」
 と聞いてみた。だが彼が言うにはそうでもないのだという。信者はお寺にもよく訪ねてくるのだが、うちとけてお坊さんと話すことも珍しくないという。また修行僧の中には、お寺で集団生活をするのではなく、一人住まいの家を借りて暮らしているものもあるという。彼もそうした生活をしたことがあるという。純粋に功徳を積みたい、と思って寄進する人ももちろん多いだろうが、修行僧の中には、女性信者の人気を集める僧もいたりするそうで、バレンタインのチョコじゃないけど、その僧侶めあてに寄進物の集中することもあるという。
「そういう女の人たちはね、そのお坊さんの住んでいる家にまで訪ねていって身の回りのことをいろいろしてあげるんですよ」
「え! そんなことやっていいの?」
「大丈夫です。それも功徳を積むことになるんです」
「いや、その、来てくれた女の人とどうにかなっちゃうってこともあるでしょ」
「そんなことはしません。だって修行中は女の人に触れちゃいけないんですから」
 という彼の答えだった。 
 しかしそんなふうにして家の中で二人で過ごす時間は、そのお坊さんもけっこう「フレンドリィ」なのだそうである。
 そう言えば、仏典の中には女性と一線を超えちゃったお坊さんの話が時どき出てくるけど、そんなのホーフツさせる話だ。
 はたして彼が一線を越えたかどうか。小心なるがゆえに厚かましさを持ち合わせていない私は、そこまで踏み込んで質問できなかった。