BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№79「手が燃えたら熱いでしょう?」

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 そのとき、宿王華菩薩は、釈尊に問うた。
 「世尊よ、薬王菩薩はどうして娑婆世界に留まっておられるのですか。娑婆世界では、幾千万億という難行苦行が絶えないでしょう。 世尊よ、どうかその理由を説明してください。それを聞けば、ここに集まった天のものと人と非人とみな歓び満足するでしょう」
釈尊は、説明した。
 「遠い昔、ガンジス川の砂の数に等しい劫の昔、仏がいた。日月浄明徳如来と号した。その仏には八億の菩薩がおり、 七十二のガンジス川の砂の数に等しい声聞たちがいた。そこには、女人はおらず、また地獄、餓鬼、畜生、阿修羅の類もなく、地は平坦で、瑠璃でできていた。宝樹は列をなし、天蓋で覆われ、樹々の下に台座があり、ことごとくに菩薩や声聞たちが坐していた。 虚空には沢山の天子たちが集い、伎楽を鳴らし、歌を歌って供養していた。そのとき日月浄明徳如来は、一切衆生喜見菩薩と会衆に 法華経を説いたのである。この一切衆生喜見菩薩は、一万二千年のあいだこの如来のもとで修行を重ね、 現一切色身三昧を得た。この三昧を得て歓び、こう思った。
 『わたしが現一切色身三昧を得たのは、法華経を聴いたおかげである。わたしは日月浄明徳如来法華経を供養しよう』
 こうして、虚空のなかに曼陀羅華を雲のように満たし、また栴檀の香をふらせた。この供養が終わってから、また思った。
 『わたしはこうして神通力で仏を供養しても、この身を以って供養するには及ばない』
 こうして、一切衆生喜見菩薩は様々な種類の香料を、十二年間飲み続けた。そして香油を身体に塗り、日月浄明徳仏 の前に出て、天衣をまとい、香油を注ぎ、神通力で自分の身体に火をつた。その光明は八十のガンジス川の砂の数に等しい世界を あまねく照らした。諸仏は誉めて言った。
 『素晴らしい。これが本当の供養だ。他の何を以ってしても、たとえ国城、妻子を以って布施するとも及ばないだろう。 これは最高の布施だ』
 このように語って、諸仏は黙した。一切衆生喜見菩薩の身体の火は千二百年燃え続けた。そうして菩薩は命尽きたが、 また日月浄明徳仏の国において、浄徳王の家に結跏趺坐したまま生まれ、その父母に言った。
 『父上、母上、わたしはかって日月浄明徳仏の下で修行し、現一切色身三昧を得て、仏の供養のため、この身を捨てました。仏は 今もなお健在です。わたしは衆生のあらゆる言葉を解する陀羅尼だらにを得、 法華経の八千万億の何千倍の詩句を聞くことを得ました。 それゆえ、再びこの仏の下へ行きたいのです』
 こう語ると、菩薩は虚空へ上り、仏の前に至って合掌し礼拝して言った。
『世尊よ、ご健在でしたでしょうか』
 そのとき日月浄明徳仏は、一切衆生喜見菩薩に告げた。
 『一切衆生喜見よ、わたしの涅槃のときは近づいた。お前は、わたしの床の用意をしてくれ。わたしは今夜、入滅するだろう』
またこう言った。
 『一切衆生喜見菩薩よ、わたしは如来の法をお前に委ねよう。また、 阿耨多羅三藐三菩提ならびに三千大千の七宝の世界 ならびに諸の宝樹、宝台、及び諸天の侍者たちも、ことごとくお前に委ねよう。わたしの入滅ののちの舎利もお前に委ねよう。 この経を流布し、広く供養しなさい。また幾千の舎利塔を建てなさい』
 こうして日月浄明徳如来は、一切衆生喜見菩薩にすべてを委ねて、涅槃に入ったのである。
 そのとき一切衆生喜見菩薩は、仏の入滅を大変悲しみ、また仏を恋慕し、栴檀の薪を積んで仏身を焼いた。焼き終えて舎利を 集め、八万四千の壷を作り、八万四千の塔を建てて供養した。
 そして一切衆生喜見菩薩はこう思った。
 『こうして供養しても、まだ足りない。もっと舎利を供養しよう』
 こう言うと、一切衆生喜見菩薩は八万四千の塔の前で、自分の腕を燃やした。その火は七万二千年燃え続けた。その間、 数え切れない人びとに阿耨多羅三藐三菩提への発心を起こさせ、現一切色身三昧を得させたのである。
そのとき、天の人と非人と諸々の菩薩たちは、腕のないのを悲しみ、こう言った。
 『一切衆生喜見菩薩はわれらの師である。しかるに腕がない不具者になってしまった。どうしよう』
 これを聞いて、一切衆生喜見菩薩は会衆の前で、こう言って誓いを立てた。
『わたしは両腕を捨てたので、必ず仏の金色の身体を得るだろう。もしこのことが本当なら、わたしの両腕は元に戻るだろう』
 この言葉を言い終わると、両腕はもとに戻った。三千大千世界は様々に揺れ、天から花々が散ったのである」
 釈尊は宿王華菩薩に言った。
「お前はどのように思うか。この一切衆生喜見菩薩は誰あろう、今の薬王菩薩その人である。菩薩は幾千万億の苦行をし、 このように身を捨てて布施をしたのである。宿王華よ、もし発心して阿耨多羅三藐三菩提を得ようとするならば、手の指、足の指 を燈して仏塔を供養せよ。そうすれば、国城、妻子、あるいは三千大千世界の珍宝を以ってするに勝るであろう。
 ※http://www.james.3zoku.com/pundarika/pundarika23.htmlより転載

 『法華経』というのは優れて特異な文学作品であると思う。深く知りたいと思いつつ、いまだ果たせないでいるが、長い仏教の歴史の中で、これだけ多くの智者たちを魅了し、今に至ってなおそのそこの深さを究め尽くせぬテキストはないのではないだろうか。
 ここに引いたのは『薬王菩薩本事品』第二十三の抄訳である。本編に見えた「喜見菩薩」の物語の出典である。この異様なストーリーが、仏教徒たちの心に深く刻印され、自らもそれに習おうとして身を焼く行為に駆り立てた要因の一つである。
 身を焼く、あるいはもう少し広く身命を損なうという行為は、仏教に限らず世に知られた宗教のそれぞれが何らかの形で行っているものでもある。昨今、自爆テロ、あるいは政治的不当に対する焼身自殺など、物騒な事例も聞くが、報道されているように、そこに宗教的な動機が存在しているのかどうか私は知らない。私の国だってかつては神風特攻隊などという事例があった。
 宗教信仰と人命尊重という倫理観とは、決して相通ずる仲ではないのかもしれない。

 だが、このことは以外に重要なことだと思う。人命尊重を典型とする一般的な(言葉を換えれば「大多数の」)倫理観とは、じつは我々多くの日本人が生得的に持っているもので、その受け皿に容れることの出来る「宗教」であれば信じてもいいし、そこではとても受け入れられないものについては、声を大きくして違和感を唱える。そうした傾向がありはしないか。日本人の宗教観について取りざたするものは少なくないが、こうした観点も一考の余地はないだろうか。
 焼身について、実際に江戸時代にそれを行った事例を知っている。本編ではもう一度、身命を損なう話題が出てくるので、そこで紹介することにしよう。