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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№82「木の実が好み」

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 「木食」とは言うのは、べつに木の枝や幹をむしゃむしゃ喰うのではないらしい。

 木の実、クリや椎のみクコの実など。いわゆる動物性タンパク質を避けて、しかも「喰うために作ったもの」(稲作・畑作の生産物)ではなく、自然に自生の物で、自分のいのちをつなぐためのものという意味合いらしい。だとすれば、「木の実」だけだったら、画像のようにけっこういけるかな、と思ったナマグサボーズである。

 さて木食と言えば、多くの方が連想するのは彫刻の遊行僧として知られている円空や五行(明満)等のことだろう。

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 しかし本編に見た通り、「木食」修行の一形態を表す普通名詞であり、彼らユニークな木仏を作り出したお坊さんたちの固有名詞ではない。むろん、彼らが各地を遊行し、そのセンスあふれる多くの木仏たちを残すとともに、特異な修行である「木食」を知らしめた功績は大きいものがあるだろう。ただ押さえておきたいのは、彫刻という特技があるなしにかかわらず、木食行をもっぱらとしていた僧侶はあったのである。

 西海賢二さんという人は、そうした「木食」僧の研究で業績を上げた方だ。近世期の木食修行者を丹念に探し出しては、それぞれの足跡を明らかにされている。そこにうかがえる「木食僧」のゆるい共通項は次のようなものだった。特定の寺院に非定住、教団組織の上では周縁部に位置する、彫刻者にかかわらず一般民衆から信を寄せられることが多い、それは所属寺院(がある場合)の檀信徒に限らない、etc. ややデフォルメして言えば、組織に属さず、あちこちフラフラしているけど、民衆の人気はばっちりな変わり者、というところだろうか。

 さて、アウトローを気取って、定職に就かずフラフラしているだけなら僧侶に限らずいろんなジャンルに仲間がいそうだが、民衆の信を勝ち得ているという人は、そうざらにいない。木彫の能力無き僧侶たちの「魅力」という名の「力」はどこから生まれてくるのだろう。

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 それがとりもなおさず「木食」なのだと思う。ふつうの人は常食としない非日常食。

 断食、穀断ちにも通じることだけれど、何かの「欠損」は、いつの時代も何かの「プラスの価値」を生み出す。マイナスがプラスに転化するのだ。それは時に肢体の一部であったり、言語や聴覚・視覚など人体機能の一部であったり。あるいは今挙げたような常食の「欠損」であったり。場合によってはその欠損がうまくプラスに方向転換できずに、負の意味合いのみ大きくなってしまう例もなしとしないけど、プラスへの価値反転を内包するという意味では、「欠損」はやはり大きな種子だと言える。

 だとすれば「食の欠損」としての断食・穀断ち・木食とは、プラスの価値を生み出すための一つの「方法」だと言えないか。肢体や人体機能の場合、多くは本人の望まぬ「欠損」だが、食の場合は修行者本人による意識的な手段だ。そこで獲得するプラスの価値とは「宗教的聖性」である。

 より強い、そしてより高い宗教的聖性を獲得するのが宗教者の「修行」だと仮に定義できるなら、なるほど「木食」は正しいベクトルの修行なわけである。