BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№83「スプラッタスプラッタ」

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 いやはや、この度の本編 №83に登場する愛法梵志のエピソード。すさまじいですね。
 あるバラモンにこう命じられた。
 「お前の皮を剥いで紙とし、流れ出た血を墨とし、骨を筆として、これから俺の言う聖なる教えの偈文を記すなら、その偈を教えてやろう」
 で、その通りにしたわけだ。
 こんなの実写版で映像化したらあまりのグロさにどん引き必至。R15ともじったのはそういうわけだった。ところが仏典にはえてしてこんな話がちょこちょこ登場する。
 それも一般のお坊さんにとってなじみ深いものに出てくる。
 たとえば『仏遺教経』の次の一節。このお経は枕経といって、訃報を受け、僧侶が臨終者の枕元で読経する定番のもの。ご存じ、お釈迦さまの遺言の教えをまとめたと言われるものだ。
 「汝等比丘、もし人あり来たって、節々に支解するとも、まさに自ら心を摂(おさ)めて、瞋恨(しんごん)せしむることなかるべし」
 お前たち修行者よ、もし人が来て“節々に支解”されたとしても、自ら心を制して、相手に対して瞋(いか)りや恨みの心を抱いてはならない、という意味だ。で、この“節々に支解”とはどういうことか。“肢体を切れぎれに斬りわける”ということだ。そう、かなり恐ろしい状況なわけである。経文の主旨は瞋恚の心を抱いてはいけないというところにあるが、ここでは、そんなスプラッタな場面が想定されているところに注意しておきたい。そんなカラダをズタズタのバラバラにされても怒っちゃいけない恨んじゃいけない、というのは無茶でしょ、と思われるだろうが、釈尊が比丘(修行僧)達に求めているのはそんなことなのだ。
 もう一つの例を挙げよう。
 それは寺院法要で定番の「大般若祈祷」で転読される『大般若経』の中に出てくる。それは、第398巻の常啼(じょうたい)菩薩のエピソード。
 教えを求めて説法師法涌菩薩を供養しようとする常啼菩薩。しかしその身は貧乏で供養する財宝がない。憂悲する常啼菩薩。そこへ現れたひとりの婆羅門。ことの次第を知って常啼菩薩に語って云う。「それでは私が、供養するためにあなたの血・髄・心臓を買ってあげよう。売ってくれるかね?」と。常啼菩薩、踊り上がって歓び、「あなたが買ってくださるなら、私で用意できるものは何でもお売りいたしましょう」と言う。そこで次のような事態に進む。(以下原文の読み下し)
 (常啼菩薩)大士、その時この語をなしおわって、すなわち右手を伸ばして利刀を執取り、己が左臂を刺してその血を出さしめ、また右髀(もも)の皮肉を割(さ)きて地に置き、骨を破り髄を出して婆羅門に与え、また牆辺に赴きて心(臓)を剖(さ)きて出さんとす。
 はあ~。
 この後、法涌菩薩は常啼菩薩の行為に感じ、教えを授けることになるのだけど、いやはやこれまたすごい。
 禅宗ではよく知られている中国僧・慧可が、インドからの渡来僧・達磨に参じ、求法のためにその左腕を切り落とした話も、この常啼菩薩のエピソードの延長にある。
 仏教にこんなおぞましい場面があること自体、意外の感を持つ人もあるかもしれない。こんなスプラッタシーンも、日本仏教がたどってきた歩みの中でメインステージから遠ざけられてきたものかもしれない。いや、決して復活させろと思っているわけじゃないけどね。