BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】ちょっといっぷく(四)『真俗仏事編』と曹洞宗の年忌葬祭説

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さて本編№86で『真俗仏事編』巻三「祭霊部」が終わった。次回からは巻四「送終部」が始まるが、これまでにならって一巻の区切り、その幕間に「ちょっといっぷく」しよう。ここでは本文の内容から離れて『真俗仏事編』をいろんな方向から見ようと試みてきた。そこで今回は「いっぷく(三)」
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/12/06/123247
でちょっとだけ触れておいた曹洞宗との関わりを述べてみたい。
 真言宗(系?)僧侶・子登の編集にかかる本書が曹洞宗と関係するということは先行するどの文献にもまだ見えない。これを印刷媒体で指摘しているのはたぶん私だけなのだけど、今回はここであらためてその具体相を示しておきたい。というのも、このあと着手する『真俗仏事編』巻四「送終部」こそが、曹洞宗との関わりを証拠立てる中心部分であるからだ。
 あらかじめ結論めいたことを述べておくと次のようになる。
 「明治初期の曹洞宗における葬儀・仏事に係わる教説は、そのほとんどを『真俗仏事編』巻四の所説に依って説いていた」
 以下、この結論に到るまでのいくつかの事柄を組み立てていこう。

 先ず、曹洞宗教団ばかりでなく日本の全仏教教団が経験した明治初頭の特殊な宗教行政事情について。
 明治五年(一八七二)、新政府は「三条の教則」を中心とする国民教化政策を推進するため、新設の管轄官庁・教部省の指導の下、神道神官と仏教僧侶による合同布教態勢を企図し、教導職制度を実施した。教導職には公設の試験によって補せられたので、各宗では教団内僧侶に対する教導職試験への対応として、三条の教則を教団教義の立場から敷衍することをはじめ、幕藩期以来教団教説をあらためて整理成文化する作業が行われた。
 も少し平たい言い方をすると、明治政府はそれまでの神職仏教僧侶という宗教宗派による区分を止め、「三条教則」すなわち、
  第一條 一、敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
  第二條 一、天理人道ヲ明ニスヘキ事
  第三條 一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
を主軸とした、全国民に対する新教育体制推進のために、すべて「教導職」という名の下に一括管理しようとした。その担当省が「教部省」である。これにより各仏教教団はそれぞれ各宗の教説を以て、いかにこの三条布教をなすかという対応に迫られた。そしてこの教導職とは公設の試験によって補任されたので、従来のようにその宗派教団の中で僧侶となる,というものではなく、試験に受からなければ教導職になれないという(あたりまえだけど)シビアなものだった。よって各宗では教導職試験への対策として、三条教則をさらに具体的に十項目の問題に展開した「教導基本問題」を設定し、その研鑽にいそしんだ。ちなみに曹洞宗における問題十説は次の通りである。
  鎮護国家
  六趣輪廻
  霊魂中有
  年忌葬祭
  真俗二諦
  生死透脱
  教外別伝
  異類中行
  大悟却迷
  仏祖帰処
 こうしてこの十題を充分理解し布教する力を踏まえ、三条教則の意義を敷衍する宣布者(=教導職)養成が、各宗仏教教団の喫緊の課題となったわけだ。この教導職制は明治五年より始まるが、特に仏教(中でも浄土真宗)側から強い抵抗があり、徐々に破綻していって明治十七年で廃止となる。短期間ではあるが、その後の各宗教団の性格にも深刻な影響を与えたものとして悪名高い制度であった。
 だが皮肉ながらも今となってはよい面もあった。それは、上掲十項目について必ずしもそれまではきっちりと成文化されていなかった教団の教説が、(以上の屈折した状況下とは言え)文献資料として編まれ、後代に伝わることになったという点である。それも同時代の同じ社会状況のもとで作成されたものだけに、各宗教説の比較対象を初めとして研究素材としてとても有用性の高いものとなった。
 と教導職のことはこれくらいにして話を先に進める。
 曹洞宗の場合、教導基本問題について、宗内僧侶向けのテキストとも言うべき解説書は現在三書知られているが、そのうち刊行年次の最も早いものが
能仁柏巌撰述『曹洞宗問題十説』である。
 本書は、明治四年(一八七一)四月に初版が刊行され、明治八年(一八七五)十一月に再版されている。教導職制の実施は明治五年だが、その前年の刊行であることから、明治政府による公式制度発表以前に、仏教教団ではこのような対応が始まっていたことがうかがえる。また四年後に再版されていることから、本書が教団内で相応の需要のあったことも推測できる。さらに上述のように、当時の僧侶達にとって教導職試験への対応が急務の課題であった事を考えれば、本書の意義は小さくないだろう。
 この『曹洞宗問題十説』中、第四「年忌葬祭」は、その表題が示すように曹洞宗における年忌法事また葬祭仏事に関する所説を収めたものだが、その構成は大きく二つから成る。それは「祭霊部」七箇条、「送終部」十箇条である。細目は次の通り。
 「祭霊部」
 一、年忌。二、忌日。三、祥月。四、忌日請僧設斎。五、回向。六、霊供。七、霊供本証。
 「送終部」
 一、葬法。二、請僧引導。三、舁父母棺。四、送葬幡。五、経衣。六、死後三日斎。七、七七日追福。八、率都婆。 九、脱忌。 十、僧服忌。
 この十七条中、「祭霊部」「一年忌」を除いて、余の十六条は全て『真俗仏事編』と項目名の一致または近似を認めることができる。さらに言えば『曹洞問題十説』の各内容は、文章構成は変えているが、引用書目は『真俗仏事編』とすべて同じ。それぞれの趣旨内容も全く同じなのである。しかしながら、『曹洞問題十説』「年忌葬祭」は、そのもとが『真俗仏事編』であることを一切明記していない。つまり直接のネタ本である『真俗仏事編』の名前は伏せておいて、『真俗仏事編』が使っていた典拠資料はそのまま踏襲し、その文章を編集し直してあたかも自説のように書き並べているのである。著者・能仁柏巌は、本書執筆当時「権少教正」とその肩書きに書している。これは十四段階から成る教導職階位のうち、下から九番目の階位に当たる。この書題には続いて「官許」の文字があり、言うなれば『曹洞問題十説』は公的意味を持つ曹洞宗テキストと言うことになる。
 だがここでは『真俗仏事編』所説の転用(むしろこの書き方では盗用と言われてもしかたないが)の罪はあえて問題にしない。問題なのは、こうしたことが周辺から批判された形跡もなく、再版されていることからもわかるように、ひろく教団内で受け入れられたことだ。ひょっとすると能仁ひとりが行ったことではなく、当時までに曹洞宗の年忌葬祭に係わる教説は『真俗仏事編』の所説をもって語られていたものを、能仁があらためて文章化したものだろうか、という想像さえしてしまう。いずれにしても唐突に能仁の教説が受けとめられるというのは不自然であり、むしろ『真俗仏事編』(少なくとも「年忌葬祭」説)は、曹洞宗内に少なくない範囲で流布していたとみるべきじゃないだろうか。
 そんなわけでこれからの本編巻四「送終部」を読み進めていくことは、明治初期に曹洞宗内で語られていた「年忌葬祭」説を知ることにもなる。そんな興味を持ちながら始めていこうか。

 あ、実際に『真俗仏事編』「送終部」と『曹洞宗問題十説』「年忌葬祭」を比べてみたい方は、こちらに後者の文章をアップしているのでどうぞご確認くださいませ。
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/06/23/172748