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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№89「慎終追遠」

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 『論語』に「慎終追遠」という言葉がある。
 孔子の弟子の一人、曽子の言葉として出てくる。

 「終わりを慎み、遠きを追えば、民の徳、厚きに帰す」。

 新釈漢文大系版から吉田賢抗の訳と註を引いてみる。

 上に立つ人が、人生の終わりである死をおろそかにせず、すなわち葬儀は誠を以てやり、また先祖の祭りは手厚くして人情の誠を尽くせば、自然に人民もそれに感化されて、人情風俗が厚くなっていくものだ。

 慎終:親の死に際して、葬式などの礼に誠を以て大切に行うこと。
 追遠:「遠」とは親または先祖をさす。死んだ親や先祖の霊を粗末にしないように追慕し、祭典の敬を尽くすこと。

 仏教の葬儀のことを語るに、儒教典籍から言葉を借りることをとがめるご意見もあるだろうか。だが私はこの言葉に大きな意義を認めたい。
 私の住むところは北東北の田舎町。こんな所にも葬儀業者が複数あって、こぎれいで便利をうたう「葬祭ホール」なるものが出来ている。うちのお寺はそうした町の中心部から離れた地域にあり、お檀家さんの葬儀でホールを利用するのはまだ年間数件止まり。八~九割はお寺の本堂で葬儀を行っている。だが近隣のお檀家さんの声をしばしば耳にする。
 いわく「ホール使うとたしかにお金はかかるけど面倒が無くっていいよ。会食の時だって、べつに遺族がビール注いで回んなくたってホールのスタッフがみんなやってくれるんだもの」。
 いわく「ホール使えば集落や近所の人たちに頭下げてお願いしなくてもみんなやってくれるから楽でいいよ」。
 さらには会葬案内の範囲をぐっと狭めて行う傾向がで始めている。二〇~三〇年前までは、ふつうの家のじいさんばあさんの葬儀でも60~80人のお客はざらにあった。当寺は自宅葬も多く、一軒の農家にその人数の会葬者がぎっしり並んでお斎のお膳についていた。それが昨今では珍しいほどになってきた。中には「家族葬で行います」と称して、10人に満ちるかどうかという場合もあり、さらには「会食は行いません」という場合も聞くようになった。
 合理化、簡素化といえばなんとなくごまかされるが、これのもたらす事態は親族間・地域間の〈人のつながり〉の弱体化にほかならない。
 〈人のつながり〉が煩わしいという気持ちは一面で理解できるが、それはものごとの功罪二つある面の片方だけしか見ていないからじゃないだろうか。

 「慎終追遠」とは、『論語』においては君主のあるべき姿の一つとされるが、しばらく君主ではなくすべての人に当てはまるものと捉え、「民の徳」というところを「人のつながり」と換えてみたい。葬儀・年忌法要を大切にし、誠実かつていねいに行うことは、人のつながりを厚くしていくことになる、と。

 ある仏教系研究機関の研究班に所属していて、葬儀・追善供養のあり方をめぐって歴史的・現代的な問題を学んでいる。自分の住むところばかりではなく、この分野における都市部はじめ他地域の情報に接することも少なくない。人の死にまつわる宗教儀式が日増しに力を失いつつある中で、「慎終追遠」という考えをあらためて喚起していきたいと思っている。