読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№90「臨死小景」

f:id:ryusen301:20160708085750p:plain

 このたびの本編№90「葬送の幡」についての記述、不思議な思いを抱いて読んだ。この手の項目であれば他の類書であれば、幡に書す文言(「諸行無常諸法無我・生滅々已・寂滅為楽」など)の説明を充てるのが常套手段なのだが、『真俗仏事編』の記述は、すこぶる異彩を放っている。
 今一度その記述を振り返れば次のようなものである。

 人が死んで、そのうち天に生まれかわる者は、中有において白い布が垂れ下がっているのを目にする。その人のタマシイが手でその布をつかみ取ると、その人は天の中有の身となる。葬送の白幡はそれを模したものだ。

 ここに言う「中有」とは仏教で言うところの四有の一つで、生有・本有・死有・中有という四つの時間区分の一つ。誕生時の生有、生きている間の本有、臨終時の死有、そして死後より次生に生まれ出るまでの中有である。いわばこの記述は臨死状態におけるその人が目の当たりにする情景を述べたものなのだ。
 本編が言うようにこの記述は『正法念処経』を典拠としている。この経典、日本の『往生要集』の地獄世界を描く際のネタ本としても知られ、死後世界を詳細に述べた経典として名高い。
 『真俗仏事編』が引いた箇所を原典にたずねてみると次の通りである。

 また次に諸の天子よ、十七種の中陰の有の法がある。汝よまさに係念して寂滅道を行うべし。もしは天、もしは人、この道を念ずる者は、ついに閻羅の使者に加害せらるるを畏れず。何等を十七の中陰の有とするや。いわゆる死時に色相を見て、もしは人中に死して、天上に生まるれば、すなわち樂相を見る。中陰の有を見るに、なお白氈のごとくにして、垂垂として墮せんとし、細軟にして白淨なり。見おわりて歡喜し、顏色は怡悦たり。命終らんとする時に臨み、また園林を見るにはなはだ愛樂すべし。蓮花の池水も、また皆な愛すべし。河もまた愛すべく、林もまた愛すべく、次第に諸の歌舞の戲笑を聞き、次に諸の香を聞き、一切を愛樂し、無量種の物は和合して細觸す。かくのごとく次第に天上に生まれて、善業をもってのゆえに、現に天樂を得る。の樂しみを得おわりて笑みを含み、怡悦して顏色は清淨たり。親族、兄弟は悲啼して號泣すとも、善相をもってのゆえに、聞かず、見ずして、心もまた念ぜず。善業をもってのゆえに、命終らんとする時に臨みては、中陰の有において大樂を成就せり。(大正蔵17・197c)
 
 以上は『正法念処経』巻三十四「観天品六之十三」の所説である。十七種の中陰の有というのは、十七種類の中有の相を言うのだが、その第一がここに説くもので、第二以下はそれぞれ生まれ変わる先が異なり、それぞれに中有の相が異なっている。詳しくは本経を参照いただきたい。
 さてこの第一の場合は、いかにも幸せそうな死後の情景である。園林、蓮華の池水、河、さらには歌声、舞踊、はなやかな笑い声、高貴な香りなどみな愛すべきものたちに囲まれ、そこにいる自分は清々とした笑顔、心はよろこびに満ちている。この世に残った親兄弟は死別の悲しみに泣き叫んでいるが、自分がその悲しみに心惹かれることはない。すべては生前の善業のおかげである。というものだ。
 このいかにも望ましい死後世界。そこへ至るドアを開くのが「白氈を手にとる」ことだった。それゆえに野辺の送りに白く細長い幡を掲げるという。『真俗仏事編』にあっては、幡に記す偈文などまったく問題にされていない。よりよき来世に導くための白い幡、あらためておもしろいと思う。