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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№93「お水が好き?」

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 え~、まいどばかばかしいところをお一つ。
 しかし仏様ってのはよっぽどお水がお好きなんですねえ。
 どうしたい熊さんのおかみさん。仏様がお水をお好きってのは。
 ご隠居さん、だってその通りでしょ。毎朝ご仏壇にコップで一杯。お膳を上げるに時も小さなおちょこにお水がつきものだし、お墓参りにもお水、お葬式やご法事に伺っても必ず水桶からお水汲んで差し上げるじゃないですか。
 そう言えばそうだなあ。
 でしょ、まったく。おかげでこないだ大恥かいちゃったんだから。
 それはまたどうした。
 いえね、こないだ親戚のご法事のお使いがあって、うちのが仕事で行けないってもんだから代わりにあたしが行くことになったんですよ。
 ふむふむ、ご法事にねえ。
 で、たまたま孫のお初も連れてこうということで二人で行ったんですよ。
 おう、お初坊か。近頃とみに可愛くなったなあ。
 まあ可愛いのはいいんですが、口も着いてきてまあまあいろいろしゃべるんですよ。それはいいですけどね、とにかく二人でご法事に行ったんですよ。向こうのお宅はその村の旧家で、そりゃまありっぱな構え。ご法事のためにふすまを外したお座敷は通しで三十畳も広いんですよ。
 そりゃ豪毅だ。
 ご挨拶して上がってみると、もうお座敷にはお客が二十人から先はいらっしゃる。お坊さんはまだ来ていないみたいでみんながやがやと世間話しているところでした。で、あたしはお初を連れて祭壇の前に行き、風呂敷から菓子折とご仏前を取り出して祭壇にお供えしました。ついでそばにあった水桶からこれまた用意していたコップにお水を汲み、祭壇に上げました。で、せっかくだからお初にもさせてあげましょと思ってコップを用意させ、二人並んであげた後、お鈴をチンチーン。お初もチンチーン。でお焼香して皆さんお集まりの席の方へ移ったんですよ。
 いいことじゃ、そうやって小さい子にも仏様へのご供養をさせる。お前さんなかなかしっかりしたところあるじゃないか。
 よしてくださいよ、照れるじゃありませんか。いえね、困ったのはそれからなんですよ。他のお客様にご挨拶しながら座っていると、お初がこう聞いてきたんですよ、あたしに。「ねえ、おばあちゃん。どうして仏様にお水あげるの」。あたしゃ、一瞬きょとんとしちまってすぐには答えが出なかったんですよ。しかしですね、ご隠居さん。これよく考えてもわかんないんですよ。ずっと昔、あたしが小さい頃は親たちから「仏様はのどが乾くから水がほしいんだよ」と聞いたような気がするんですけど、別にお坊様に聞いた話でもない。ほんとかどうかわからない。第一、そのご法事の時は全部でお客様が三十人近くもいるんだから、それがみんなでお水上げて、つごう三十杯になるくらいは上がっている。どんなにお水が好きだってこれじゃお腹いっぱいすぎてたまったもんじゃないでしょ。
 で、おかみさん、いったいなんて答えたんだい。
 しかたないから、「おうち帰ったら教えたげる」て。
 で、もう教えたのかい。
 いえ、まだ。
 なんで。
 だってそれ昨日のことですもの。
 え、だってさっき「こないだ」って言ったんじゃ
 いいえいえいえ、ですからね。昨日そういうことがあって、今日にはお初にほんとのところを教えなきゃいけないんですよ。だからこうして伺いに上がってるんじゃありませんか。
 おいおい、そういうことだったのかい。それじゃはなっから「お訊ねしたいことがあります」と切り出せばよさそうなもんじゃないか。
 だから今からそれをしようと思って、
 まあまあ、わかったわかった。つまりは「仏様にお水を供えるのはなぜか」ということを聞きたいわけだな。よしよし。ま、わしもお寺のお坊さんでもない。仏教のことなどたいして知らんが、近頃『真俗仏事編』というよい書物があってな、日頃疑問に思うような仏事についてあれこれとその由来を書いている。で、ちょうどおかみさんのい今の質問が載っておって、最近そこを読んだばっかりだ。ま、そんなわけで深い知識でもない。読みかじりの受け売りだからそう思って聞いておくれ。
 ありがとうございます。やっぱりご隠居さんのところ来てよかったわ。
 で、早速だがな、その書物には、あの世の人々は乾きやすい、と書いておる。
 あらなに、やっぱりのどが渇くんですか。
 いやいや、のどと書いておらん。「冥道の衆生は心地乾くものなり」とあるのだ。心地とはつまり「こころ」のことだ。
 はあ、「心が渇く」ですか。
 あまりピンときておらんようだな。無理もない。「心が渇く」という言い方はふだんあまり使わないからの。たとえばこんなことを想像してみてくれんか。もとは家族みんなで暮らしておったあるご婦人だ。息子が成長して嫁をもらい孫も出来た。娘もよそへ嫁ぎ外孫も生まれた、人生の一段落。連れ合いの旦那とともに子や孫と一緒にゆっくり余生を楽しもうと思っていた。だが息子家族が仕事の関係で遠くの都会に引っ越ししてしまった。旦那と二人、ひっそりとした家に残ることになった。だがその旦那もぽっくり逝ってしまった。ついには独りぼっちだ。
 ずいぶんとお気の毒な話ですねえ。
 で、そのご婦人、人づきあいがあまり得意じゃない。これといった友達もいないし、自分から出かけて行くサークルや習い事もしておらん。息子家族や娘家族もなかなか実家に帰ってこなくなった。
 身につまされるお話ですねえ。
 そうなると人と話すことがなくなるわけだ。自然と笑うことも少なくなる。テレビでお笑い番組を見てもつまらない。そんな時に久しぶりに孫達を連れて息子や娘家族が帰ってきた。数日を一緒に過ごす。あるいはどこか温泉などに連れてってもらってもいい。みんなで歓談の時を過ごす。
 そりゃさぞ楽しいでしょうねえ。
 そんな時に「ひさしぶりに気持ちが潤ったみたい」なんていうことを言うだろう。
 あら、そう言えばそうですねえ。
 「潤う」というのは、何か乾いたものが、水気を吸ってしっとりと濡れることだ。草花に喩えるなら、日照り続きで萎れたところへ柔らかな雨が降り注いで、みずみずしく活き活きとした様子だな。わかるかな、つまり心が乾く、そして心が潤うというのはこのようなことを言うのだよ。
 なるほどねえ、人恋しいけどなかなか満たされない、というのが渇いていること。好きな人と仲睦まじくいることが潤っていると言うことですね。
 うん、そうだが、お前さんが言うとなんだか男女の色恋話のようだな。必ずしもそればかりじゃないんだが。まあいいか。で、な。人が死ぬということは、今まで一緒に暮らしていた人が、ある時からぱったりといなくなってしまうことだ。この世に残った家族にしてみれば、たった一人で誰も行ったことのない遠い知らない国へ行ってしまったようなもんだ。そこでこう思う。「おじいちゃん、今頃どこでどうしているんだろう。いつも一緒にご飯食べていたのに、きっとひとりぼっちでいるんだろうな。寂しいだろうなあ」と。
 いやですよ、なんだかほんとに気の毒になってきちゃいましたよ。
 うむ、だから「冥道の衆生は心地乾くものなり」と言うのだ。平たく言えば「あの世の人たちは、人恋しくていつも寂しい思いをしている」というわけだ。だから渇きを癒やす時に最も効果的なもの、水を供えるというわけだ。
 なるほどねえ、うまくできてるもんですねえ。
 だが、ただ水を供えるだけではちょいと足りない。あの世へ行った人が最も望むものは、こちらに残った家族や縁者の自分を気遣ってくれる優しい言葉だ。「おじいちゃん、元気にしてますか」とか「こんど孫が学校の運動会でリレーの選手に選ばれたわよ」とか「大事にしていた庭の梅が今年も咲きましたよ」とかな。そんないたわりの言葉が何よりじゃ。だが、その時に一緒に水を供える。すると渇きを癒やす水の大きな力でもって、こちらから伝える言葉もいっそう強く向こうへ伝わるというものだ。『真俗仏事編』には続けてこうある。「亡霊心地かわくといえども、法水をもって湿(うるお)すゆえに菩提の芽を生ずるなり」。亡くなった人は寂しく過ごしているが、まごころこもった水の功徳ゆえに、心癒やされて、やがて本当の穏やかな心の喜びはふくれあがってくるということだろうな。菩提とは、坊さんが説明すると悟りだとか解脱だとかこむづかしいことを言うが、なに、私ら俗人にとっては、一番と幸せな心の状態だ。「うれしいな」「ありがたいな」という気持ちがいつも心にわき出ているようなもんだろう。
 じゃあ、お水をお供えする時はそういう心持ちじゃなきゃいけませんねえ。
 できればその方がいいだろうな。水をお供えする時に、それをさしあげる仏に対しての言葉を添えるのだ。実際に声に出してよかろうし、心の中で言ってもよいだろうな。そうすればたくさんの水が上がっても、ほとけはお腹いっぱいになるのじゃなくて、胸がいっぱいになるだろう。
 ご隠居さん、うまいこと言いますねえ。
 わしの知り合いの家で、こんなことがあった。そこは両親と息子で暮らしていたところへ、嫁を迎えてな、やがて孫娘が生まれた。息子と嫁は共稼ぎ、乳離れした孫はじいさんとばあさんが面倒見ていたのだが、祖父は病気が元で亡くなってしまった。で、ばあさんが孫と一緒に過ごしていたある昼時のことだ。若夫婦はいつもように仕事に行っている。孫の年は、そうそう今のお初坊と同じくらいのもうすぐ三つになろうかという頃だ。ばあさんが支度した昼ご飯を、その日はどういうわけかなかなか孫は食べようとしない。だがどこか具合が悪いわけでもなさそうなので、ばあさんはひとりでさっさと食べた。孫はそんなばあさんをじっと見ていたそうだ。食べ終えたばあさんは自分の食器を持って台所へ行き食器を洗う。そのようすも孫娘はとことこ着いてきてまじっと見ていた。あまり気にもとめず今度は、ばあさん口をゆすいで入れ歯をかぱっとはずした。孫はますますまじまじと見た。で、入れ歯を水道の水で洗ったばあさんは、自分の口の中にかぱっとおさめた。孫がびっくりしたようにばあさんの顔を見つめた。で、おそるおそるこう聞いたんだそうだ。「おばあちゃん、目もはずれる?」。
 ぷっ、あっはっはっは。なんですかそれ、まじめに聞いていたらなんて滑稽な、あっはっはっは。
 そう、滑稽なことだ。きっと孫はほんとにびっくりしたんだろう。自分のおばあさんは歯がはずれる。もしかしたら目も、そして耳や鼻も取り外しできるんだろうか、とな。これは大人がおんなじことを言ったって受けやしない。子どもが本気で聞いたからおかしかったんだな。ばあさんも大笑いだ。夕方、帰ってきた息子夫婦と一緒に食卓を囲んでその話を教え、みんなで大笑いしたというのだ。
 そりゃおかしかったでしょうねえ。でもそんな家庭だったら笑いに満ちて楽しげでうらやましいわ。
 そうだな、よく「内孫が生まれると、どんな高価な照明買うよりも家の中が明るくなる」と言うが、その通りだな。だがな、そこにもうじいさんはいないんだよ。孫が生まれた時にあんなに喜んでくれたじいさんはもういない。もし
ここにじいさんが生きていて、この話を聞いてくれたら、どんなにか喜んだろう、と思うわけだ。
 その通りですねえ、なんか泣けてきちゃいましたよ。
 その気持ちを、水と一緒にじいさんに届けてあげるのだよ。そんな気持ちを届けてあげたい時に、水は大きな力を発揮するわけだ。
 なんかいいお話ですねえ。あたしも旦那にお水上げる時はそうしてやんなくちゃ。
 おいおい、熊さんはまだ達者だろう。そんなに早く死なせちゃいけないよ。
 おあとがよろしいようで。