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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№95「人生は・・終わっても旅」

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 もとは夜暗くなってから墓穴に入れてやる冥銭であったものが、いつの頃から「六道」の名を与えられたのだろう。
 ふつうに考えれば、死後、次生の可能性として想定される、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道にかかわりあろうと思うが、本編ではそれに答えるところない。「六道」がさらに「六文」と移行するからくりについても定かな拙を聞かない。手短にたずねてみれば、六文とは三途の川の渡し賃という理由が巷に広まっているらしいが、はたしてオリジナルはいずこにあるのだろう。言わずもがなのつっこみをしてみれば、すでに貨幣単位としては通用していない「六文銭」に変えて「六万円」を使用するくらいの配慮があって良さそうなものだが、こうした葬具類について今日では最も熱心に勉強されているらしい葬祭業業界でもそうした例はあるのかしら。
 とまれこのあたりはどなたかが教えてくださるかもしれないので、ここでは次のことをターゲットにしよう。「亡者の路用に備うる」ということだ。
 路用とは、ご存じのように路銀、あるいはアゴアシ等と呼ぶ旅費のこと。つまり死者はこれから旅立つことを約束されているわけだ。
 だがこれ、ちょっと考えるとなかなかナンギな話でもある。
 「どうぞこれからは忙しかった毎日から解放されてゆっくりお休みください」と言われたのに、実際は旅立ちの支度に追われている、というのが臨終時の当人の実情ではないだろうか。
 火葬場で立ち会いの時にしばしば、いまし窯に送り入れようとする故人に向かって、「あなた、がんばって行ってね」「しっかり行けよ」と声をかける遺族・縁者に出逢う。僧侶であるこちらからは死者は旅する人として送るのだ、と改めて教えたことなどないと思うのだが。「死への旅立ち」の言葉通り、死者は六文銭ばかりでなく笠、杖、草鞋などの旅姿に整えさせてもらい、はたして気乗りしているのかどうかもわからぬまま「あの世」へのほかの誰もが行ったことのない黄泉の旅路へ送り出されるのだ。
 やはり心配だな。六文じゃ少ないって。