BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№99「つじつまの合わない話」

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 仏教の、それも現場で行われている仏事習俗を仏教の教説でどう説明しているかということをちょっと勉強した人であればよくおわかりのことと思うが、つじつまの合わないことなんてゴマンとある。そのちょっとも勉強していない人の中には、そんなつじつまの合わないところを見つけては鬼の首を取ったように言う。
 遠い国の遙か昔、一人の天才によって見いだされたある考えが、二千数百年と数多の国々・民族人種という気の遠くなるような時空を経て「伝言ゲーム」されてきた「ゴマンとある」バリェーションを「仏教」という名前でくくっているのだからそりゃ無理ありませんて。
 たとえば、「死んだらたましいはどこへいくか?」なんて問いを立てたとたんに、「釈迦はたましいを認めていない」と言う輩あり、「たましいは浄土へ行く」と言う輩あり、「六道をめぐる」と言う輩あり、「四十九日までは家の軒端を離れない」と言う輩あり、さらには「天と地に分かれて帰り次の融合の機会を待つ」と言う輩あり、 ついには「天国へ行く」と言う輩まで現れる。
 本編№99もそんな突っ込みどころが用意されていて、そこに引かれる『釈氏要覧』では死後三日目に閻魔大王に出逢う「見王斎」があるとのことだが、『地蔵菩薩発心因縁十王経』によれば、死者が閻魔大王に出逢うのは死後三十五日目のことになる。そんなことを考えながらネットをググっていたらとある葬祭業者らしいサイトに、『釈氏要覧』を引きながら三日目の「開蓮忌」の由来としていた。だがこれも開蓮忌という名称自体、「見王斎」とは異なる教説に由来するもののはずで、この二つを直に結びつけるのはいかがなものだろう。とこんなことを言うと、まさにつじつまの合わないことをつじつまの合うように付会させた言い様が世間には「ゴマンとある」のであって、ちょっと勉強している人たちにとっては格好の仏教批判の材料を提供しているわけだ。
 もとをただせばこの本編の話、死後三日に供養する必要性を説くのであってそのポイントに絞って考えてみればよいことになる。この話題の趣旨、これまでにも触れたように思うが、この世のことで説明のつかない理由をあの世に求める、という点で共通するしくみになっている。
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/12/31/145042
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/07/02/100902
 「こっちで供養すればあっち行った人が助かるよ」という論理。
 ふりかえればこの証明しようのない論理が、かなり長い間この世の人々の供養する心を支えてきた力はどこにあるのだろう。
 「そんないいかげんなことあるものか」「科学で説明できない不合理で非科学的なでっち上げだ」「ありもしない架空の話を作り上げて生きている人間を追い込む恫喝にもにた教えだ」etc.
 こうした批判は古今絶えることなく繰り返されるが、たしかにもっともだし、この言い方を押しつけるのはどうかと思うところも少なからずある。それでも今なおこの「しくみ」が力を維持し続けているのはなぜだろう。そんな力なんて21世紀の現代じゃほとんど衰退しているだろう、という意見もあるだろうか。だが「そんな考えはもう古い」という声は数百年前からあったし、各時代の科学的合理精神はそれなりに元気であり、それに対抗するこの「しくみ」もまた再生産され続けて今に到っているのだ、さしずめ今なら震災による犠牲者の亡霊譚などがその例に挙げられる。だからこの「力」が問題となる。
 人間が本来的に抱いている不可知の領域に対する不安に根ざすのか。
 現世のある秩序を維持しようとする本能的理性が来世の存在を求めるのか。
 この話題になると相変わらず結論にたどりつけない。もう少し踏み込んでいきたいのだがな。