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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

「長岡昭臣」師を訪ねて

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 10月26日。長井駅前・和泉屋の一室で目覚めた朝、窓から青空がのぞく。昨日過ごした東京の空気よりも温かい山形県長井市。今回の引き合わせをしてくれた同市の小野卓也さんが宿に迎えに来てくれた。
 小野さんの車でほど近い真言宗・摂取院に着く。豊山派に属するという古い由緒の寺院。一階部分を半地下にして本堂を載せた造り。いよいよの思いが高まる。
 ご住職は仕事で不在とのことで、奥様が玄関先に出てくださり、庫裏へ案内いただく。通された部屋にいらっしゃった温和そうなご老師が、同院前ご住職、旧姓長岡、今は神尾という姓の昭臣老師ご本人だった。

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 同師の名をおぼえたのは次の文章だった。これは丹羽簾芳禅師著『梅花開』の一節。簾芳師の師、静岡県洞慶院・丹羽仏庵師を中心に発足した御詠歌の研究グループの活動の様子に関わるくだりである。

 「梅花流詠讃歌の創設」
 小康をえると、もうじっとしていられないのが師匠(仏庵)の性格でした。
 昭和27年には、ご開山道元禅寺様の、七百回御遠忌が予定されていましたが、旧態然たる計画で目新しさがない。師匠の仏庵は、この御遠忌を長い戦争で荒廃した人心をいやし、あわせ宗門の復興発展をはかる絶好の機会であるととらえていました。監院時代の昭和20年12月、早くも大遠忌の第1回準備会を開くという熱心さでしたので、通り一遍の内容に満足できませんでした。
 当時、曹洞宗には宗門としての詠讃歌がありませんでした。心要な時には、金剛流などから譜を借りて間にあわせていましたので、「曹洞の乞食節」と呼ばれるあわれな状態でした。
 師匠はこの点に注目しました。ご遠忌までに、なんとかご開山のご和讃やご一代記をつくり、そのお徳をたたえるしんみりした譜づけを完成したいと願いました。そこで、昭和25年の小松原国乗宗務総長の時でしたが、師匠は宗務庁にご詠歌の創設を再三にわたり進言しました。
 いっぽう、宗門の図書や印刷を担当している古径荘という会社が東京の青山にありますが、そこの森地明睦さんに「ご詠歌の先生を知っていたら紹介してほしい」と相談しました。
 「それは、ちょうどよかった。今、埼玉県の川口市に住んでいるけれども、金剛流からわかれた密厳流という新しいお流儀があって、なかなか明るい作曲をしている」という、森地さんのお返事でした。
 さっそく、高野山大学を卒業した川口市の長岡紹臣さんという、当時25,6のお若い師範をつれてきてくれました。そこで、昭和25年から毎月長岡紹臣さんを講師に招いて、密厳流の研究会を始めることになりました。
 宗務庁がご詠歌の創設に躊躇しているのをみると、師匠は北村大栄師の「高祖大師御一代記」の和讃をもとに、出来上がった作詞に自ら手を加えて、「降誕」「得道」「説法」「涅槃」の四段にわけ、長岡紹臣さんの師匠にあたる小河原玄光師に作曲を委嘱し、この年の12月完成をみました。
 翌昭和26年の1月から、師匠をはじめ私ども静岡県第1宗務所の大賀亮谿、安田博道、大島賢竜、丹羽鉄山等20数名の有志が、二日間泊まりこみで本格的な勉強にとりくみました。長岡さんが、観音さんの秘曲といわれる密厳流のすばらしい譜を詠じてくれましたが、そのつど感激して聞きほれたものです。
 2月に入ると小松原内局にかわり佐々木泰翁師が宗務総長に就任しましたが、師匠は社会部長の山喜紹三師にご詠歌創設を引き続き進言しました。師匠の再三の進言に加え、大遠忌局企画部次長の山田義道老師の要請に刺激され、6月にいたってともかくも研究会が曹洞宗の外郭団体として発足することになりました。翌7月には、山田霊林禅師さま、堀口義一、高田儀光、山内元英、赤松月船、永久岳水、小暮真雄、関岡賢一の八師に、詠讃歌研究員が委嘱され、ここに具体的な歩みを始めました。これまで長岡師範の毎月の旅費からお礼まで、すべて師匠一人で負担しておりましたが、ようやくにむくわれたという思いがしました。
 宗門としてとりくみはじめれば早いもので、10月には各研究委員が詠讃歌の歌詞の原案をもちより、山喜社会部長の骨折りで密厳流遍照講本部長でもある新義真言宗智山派教学部長石川隆淳師に作曲を依頼しました。こうして1月には、「大聖釈迦牟尼如来御詠歌」「高祖承陽大師御詠歌」「太祖常済大師御詠歌」をはじめ全19曲の完成をみました」
(丹羽簾芳『梅花開‐わが半生』昭和55年第1刷(56年第2刷)、洞慶院)

 ここに「長岡紹臣さん」という名前が見えるが、ご本人の訂正により、「昭臣」と記すのだという。さらに文章中の「金剛流から分かれた」は「大和流から」に、「高野山大学を卒業した」は「大正大学を」に訂正すべきことがわかった。

 もうひとつの文章も挙げておこう。これは安田博道師の梅花流回顧録の一節。往時を振り返って丹羽簾芳禅師と対話している場面である。

 安田 そう、本当、私たちは忘れることができない。小河原玄光師と長岡紹臣師に来ていただいて講習を受けていた時など、私たち、間違うでしょう、まあ、恥ずかし笑いというか、笑ったら、大喝一声、(※仏庵老師に)叱られたんです。「恥ずかしいなんてことあるか、もっとしっかりやれ!」って、大声で叱られました。やっぱり、何とかして曹洞宗に詠讃歌を取り入れたいという熱意からだったんでしょう。
 ――仏庵老師はそばで見ていらしゃったんですか。
 安田 うん。もう不老帽をかぶられてね、夜でもずっとついておられて、我々車座になって指導を受けてたわけです。そういうことがありましたよ。
 ――禅師さんもその頃、習われたわけですね。
 安田 いつもご一緒なんです。
 丹羽 安田老師さんがね、今はもうすばらしい、一声一声がね。イロといい、ツヤといい。けれどもその当時、長岡師範に習うときにね、長岡さんのあの微妙な節回しには苦労して、そおっと本堂へ行って、習っていらっしゃったことがあるのよね。(笑)
 安田 一番最初は真言宗智山派の小河原玄光という方が高祖大師御一代の和讃を選曲されたんです。昨年亡くなりましたが‥‥。
 丹羽 ああ、亡くなった? 本当?
 安田 私たちの本当の恩師なんですけれども。講習会で教えていただいた最初は、小河原老師なんですね。しかし、他州の人に教えることに、自宗の方で抵抗があったんでしょう。それで、神尾昭臣という方をさし向けてくれたんです。これには古径荘の主人の森地明睦お世話下さったんでしたね。
 丹羽 そう、森地さんです。
 安田 ずいぶん、世話をしていただいて‥‥。
 丹羽 まだお元気です。
 安田 そうですね。
 丹羽 私の師匠と非常に懇意で‥‥。
 安田 本を出された関係もあってね。そういう、本当に何か思い及ばないつながりがあるわけですね。
(安田博道『歌声に仏まします 梅花流とともに歩んだ35年‐安田博道回顧録』昭和61年12月、「安田先生の詠唱を記録する会」代表大島賢龍)

 文中、「長岡紹臣」と「神尾昭臣」の二つの名前が出てきて紛らわしい。だが前にも記すように「紹臣」は誤記、「昭臣」が正しく、また「長岡」姓が「神尾」姓となるのは後年のことであり、同師が静岡へ行っていた頃は「長岡」姓であったので、この文章はやや混同が見られる。この二つの名前は同一人で間違いはない。ともあれこの間違いはささいなことである。
 
 若干引用文が多くなったが、丹羽・安田両師の文章から梅花流発足期の様子がうかがえることと思う。そして「昭臣」(以下、お名前はこの表記に統一する)師の重要性も確かめられると思う。
 洞慶院・丹羽仏庵師の呼びかけももと参集したこのグループは「斯道会」と呼ばれた。斯道会のご詠歌研修は、初め真言宗密厳流の小河原玄光師の指導に依ったが、後、長岡昭臣の指導を仰ぐことになる。斯道会には丹羽簾芳師、安田博道師の他、大島賢龍師、丹羽鐵山師、大賀亮谿師等、梅花流草創期を牽引する主たるメンバーが揃っていた。また初めて編集された「梅花流詠讃歌教典」はすべて密厳流ご詠歌の曲に曹洞宗の歌詞を載せたものだった。その詠唱指導が昭臣老師である。いわば梅花流誕生期のご詠歌の指南役というわけである。
 斯道会の丹羽禅師以下の初期諸老師はほぼ遷化された現在、昭臣老師の話に直説接することができるのというのはまさに僥倖というほかない経験だった。以下、一時間余にわたってお聞きしたお話である。

⊿お生まれは
 私は昭和4年1月1日生まれです。栃木県大田原市の湯津上にある真言宗寺院の次男坊として生まれました(佐藤注:現在、栃木県大田原市湯津上1350に威徳院極楽寺という真言宗智山派寺院がある)。近くに曹洞宗の光真寺という大きなお寺がありました(注:栃木県大田原市山の手2-11)。小学校を上がるまでそこで過ごし、その後、埼玉県川口市善光寺へ移りました(注:真言宗智山派、埼玉県川口市舟戸町1-29)。そこから大学へも通い、20年ほどおりました。

ご詠歌との出逢いは
 昭和9年に、御大師様(空海)の1100回忌の御遠忌があったのですが、それをきっかけに宗門のご詠歌が大変盛んになりました。父もその影響でご詠歌を弘めようと行っていたのを、まだ小さかったのですが私が聞きおぼえに憶えておったんですよ。その後戦争もあってしばらく休んでいたのですが、戦争が終わってからまた盛んになりました。その頃、善光寺にもう一人、会沢ショーエイ(?)さんという方が書記というお役でいました。その人は東京港愛宕の真福寺という真言宗智山派宗務所があったお寺にいた方です。そこで会沢師は小河原玄光さんや江連政雄さんという方達にご詠歌を習っていたのです。ご詠歌の上手な人でした。二等師範だったと思います。善光寺は東京から北ではとても大きなお寺でした。その近くに錫杖寺があり(注:川口市本町2-4-37)、江連さんはそこの住職でした。お唱えよりも作詞などをだいぶされていました。

⊿洞慶院へ行くきっかけは
 丹羽禅師の本の中にもあったけれども、古径荘の森地さんという方が、善光寺に一部屋を借りて住んでいたんですよ、戦後ずっと。そこから東京の出版社へ通っていたんですよ。それで森地さんから「どうだ、言ってみないかい」と言われ、私も若かったので「はいはい」と応じたんですよ。今考えてみると、とんでもないことしたなあと思うんですけどね。本にあったように学校終わってからだから25~6歳の頃でした。
 
⊿洞慶院での講習のようすは
 大体全部で10回くらい行ったでしょうか。月に一回行っていました。当時は交通も不便でしたから一泊二日で泊まりがけの講習でした。
 大体15~16人くらい集まっていたでしょうか。みな私よりも年上でした。
 安田さんという方がいて、あの人は前に、流派はわかりませんがどこかのご詠歌をやっていたようで、上手でしたよ。
 丹羽禅師はお唱えはふつうでしたが、しぐさや言葉づかいが女性ぽい人でした。お師匠さんの仏庵さんという人は大変厳格な人で、簾芳さんはよく叱られていましたよ。その頃簾芳さんは、たしか近くの一乗寺というお寺の住職だったと思います。
 丹羽鐵山さんも熱心でした。たしか鐵山さんのお姉さんと聴いたように憶えていますが、きれいな女性が一人おいでで、一緒に受講されていました。
 あとは大島さんという方もおいででした。そうですか、鐵山さんも大島さんもお亡くなりですか。その人たちが若い方でしたね。
 練習したのは梅花流の曲です。密厳流と全部同じ曲でしたから、密厳流の譜で、歌詞は梅花流のもので私が教えました。密厳流の歌詞のものはやっていません。森地さんが作った緑色の、梅花流最初の教典が教科書でした。密厳流の教典や法具は使っていませんでした。この教典だけを使っていまして、他のものは使ってなかったですね。
 梅花流の紫雲は、密厳流の木揚という節でしたが、所作(注:特別所作)をするところがありますが、それも密厳流の所作で教えました。
 またイロやツヤなんかも密厳流のやり方で教えていました。ツヤは「一拍に四つ揺れる」、イロは「大きく二つ、小さく三つアタる」と教えていました。ヨコアタリというのはなかったように思います。
 丹羽禅師の本に「観音の秘曲」とある曲ですが、これははっきりしませんけども大和流から秘曲として伝わった「千鳥」という曲「慈照院詠歌」がありますが、これの中で「南無大慈 南無大悲 南無観世音」と唱える所があるのでこれのことかも知れません。私、甲状腺の病気をしたのでお唱えできないんですよ。
 その頃、尼僧さんで熊倉さんという方がいて、お唱えが上手だったと聞いたことはありますが、お会いしたことはありません。笹川とか野村という尼僧さんたちのことも知りませんでした。
 洞慶院以外の会場で教えたことほとんどはありませんが、洞慶院での話を聞いたと言うことで、佐賀県のなんとかという和尚さんが私のいる善光寺まで来たことがあります。熱心な人でした、なんどか来てくれました。たしか審事院というのでしょうか、東京の「おく」という所のお寺で檀家さんの講習会に招かれたことはあります。
 丹羽禅師さんが管長禅師になられたかなにかのお祝いの時に、案内をいただいて洞慶院さんへ久しぶりに行きましたが、その時境内の下の方に梅の林が大きく広がっていてびっくりしました。私が行っていた頃は梅なんて気がつかなかったですよ。

⊿各流派のようすは
 当時(注:梅花流を教えていた前後ということか)、各流でいろんなご詠歌があって、東京ではよく大会が開かれていました。日比谷公会堂や、護国寺(注:東京都文京区大塚五丁目、真言宗豊山派)、西本願寺(注:東京都中央区築地3-15-1)などあちこちで開催されていました。曹洞宗も参加していて、たしか西本願寺の大会が曹洞宗の梅花流が参加した初めての大会だったと思います。私は大会に参加したというよりも、講員を連れて行っていた方です。その頃、「関東詠歌連盟」というものがあって、大会は盛んでした。
 曹洞宗の宗務庁で各流派の公聴会があったということは知りません。

⊿密厳流ご詠歌の修学はどちらで?
 さっきの会沢さんに教えてもらったんです。一緒にいましたから、朝からずっと教わっていました。なかなかうるさい人でしたが。当時40歳くらいでした。私が習ったのは会沢さん一人で、ほかに習った人はなく、私と一緒に習っていた人もありませんでした。小河原先生や江連先生という名前は知っていましたが、習ったことはありませんし会ったこともありません。
 その頃師範には、一等、二等、三等とあって、私は三等師範でした。それ以上になるためには講員を何百人とか集めないといけないという実績が必要でした。

⊿密厳流の特徴は
 金剛流に比べて密厳流はやわらかいですね。金剛流はお唱えも所作もかたいですね。 

⊿その後ご詠歌のとりくみは
 埼玉県のあたりでは梅花流をやろうという動きはあまり無かったと思います。真言宗など他流を勉強した人たちはあったかも知れませんが。
 昭和34年にこっちに来ましたが、もう60年になります。山形へ来てからはご詠歌はやっていません。真言宗の中では智山派と豊山派は近い関係なんです。来た当時、幼稚園もやっていたもんですからその運営もあったのでご詠歌はやれなかったんですよ。師範会もこっちに来てからは行ったことがないのです。

 ご老師は終始謙虚にそしてていねいにお答え下さった。60年以前のご記憶であるが、人名・寺名など詳細に憶えていらっしゃったことに驚いた。曹洞宗側の情報だけでは知り得ないことも数多く教えていただいた。深く感謝申し上げるとともに、ご老師の聖胎長養を願うばかりである。ありがとうございました。

 私の記憶違いもあるかも知れないので要確認の段階ではあるが、とりあえず要点を確認しておく。

 a 長岡昭臣という表記が正しい。
 b 出身大学は大正大学である。
 c 密厳流の修学は埼玉・善光寺で一緒だった会沢師の指導による。他の師範からは習っていない。密厳流三等師範である。
 d 洞慶院へ赴くきっかけは善光寺で一緒だった古径荘・森地氏の勧めによる。
 e 洞慶院での講習は約一年、毎月一回程度、一回につき一泊二日の講習であった。
 f 講習のテキストは梅花流教典初版本を使用していた。
 g 詠唱の所作、イロ・ツヤなどは密厳流のものを教授した。
 h 曹洞宗尼僧師範との接点はなかった。
 i 曹洞宗宗務庁で行われた公聴会、後に梅花流で主催した検定会、奉詠大会には関わっていない。
 j 昭和34年、埼玉を離れ山形へ移転することをきっかけにご詠歌活動は休止した。

 この度の山形行は、一月ほど前になる9月末の静岡県・可睡斎会場・本庁主催梅花講習において、摂取院ご住職と親交のあるという長井市・小野卓也師による情報提供がきっかけでした。摂取院様へのご紹介、調査当日の懇切なご配慮等、小野師のご協力には心から深く感謝申し上げます。

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