BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№103「なんのため?」

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「一重積んでは父のため、二重積んでは母のため、三重積んでは・・」。
 賽の河原に子ども達が積み上げる石の塔。娑婆に残った父母への供養塔だとか。だから亡き人を思って石を積むのは賽の河原伝承に由来する・・。ほんとうだろうか。

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 亡き妻との約束を果たすために石塀を造り続けるという話しもあった。石の塔とは違うが、これも「死と供養」に関わる。偶然なのだろうか。
 山登りするとその山頂に数個の石を積み上げてあるのを見つける。「死と供養」の影は薄い。ただの登頂記念のつもりだと思うが、でもなぜ石を積む?
 初めに戻って考えれば、賽の河原の子どもたちはどのようにして「石を積む」ことを憶えたのか。鬼が教えた? 地蔵菩薩が教えた? 娑婆の親が教えた? 最前からの子どもたちの見よう見まね? じゃその最初は? そして一見荒唐無稽なこの「積み石の供養」伝承がなぜかくも古くからそして広く人口に膾炙しているのだろう。

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 石ころの散らばる河原や地面があるとしよう。そこに所在なく座っていると、人はごく自然に手近の石を拾い集めては二つ三つと積み上げることがある。これってなんだろう。

 勝手な理由づけはいくつもできそうに思う。
 いわく、意識化の天上への憧憬による「上方へ」向かう作業。
 いわく、雑然と散在する石塊に「秩序を」与える作業。
 いわく、ばらばらに離れている箇々の石を「つなぐ」作業。
 しかしいずれも「勝手な」思いつきにとどまる。

 識者は言うかもしれない。塔はもともとストゥーパ。石による仏塔の模倣だから仏の供養であることはあたりまえ、と。そのことはもう№102で確認済み。問題はその発想の起源にある。もしかすると、人は生得的になにかを高く積み上げることに特別の意味を感じている、のではないかということだ。

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 明らかに人為によって積まれた自然石が、その意味の解明を待たぬまま文化遺産に指定されているものが世界中にある。まだ解けない謎だけど、おもしろい。