BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№105「九想図」

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 死の忌みに関する禁忌。今日、ほとんどの場合これは前近代的なこととして、具体的に取り扱うべき問題とするテーブルからは退けられる。文字通りタブーになっている。今回本編の主題となっている「死(屍)の穢れ」のことだ。
 いわく、「これまで親しく過ごしてきた親族が、死んだからといってそのとたん穢らわしいものになっているなんてとんでもない」
 いわく、「屍体が時間を追って変化していくのはたんに生物的物理的変化に過ぎない。そこに過剰な負の意味をあたえて解釈しようとするのは非科学的な考え方」
 いわく、「もともと穢れてもいない屍体に関わる諸職・諸役を“穢らわしい”ものと卑賤視するのは重大な差別行為」etc.
 巷間、耳にするこうした発言は、およそ“良識”ある人々に共通して見受けられるところだ。
 ここで私はそうした“良識”を揶揄しようとしてるのではない。そこを注意して以下を読んでいただきたい。
 ここに挙げたよくある発言に通じるのは、こうした発想が、近代的な人権意識と科学的見地をもとにしているということは了解できるだろう。
 ケガレという観念を「食枯れ」「気枯れ」と解釈しようとした民俗学文化人類学のアプローチが20~30年前に流行ったが、今にして思えばあの発想の底には、生理的・生得的な「穢れ観」を、どうにかして「忌まわしいものにあらず」という地点から解釈しなおしたいという表面化しないmissionがあったのじゃないかと考えている。
 枕経など、実際に屍体に隣接する現場を職場の一つとしている我々同業者の間でも、「清めの塩」反対の声が起こったのは、同じようなmissionを抱えていたからではないかと思う。
 さてそれでは前近代的死穢観は克服されているだろうか。
 おそらく答えは、「否」だろう。
 きれいにエンゼルケアされた場合はしばらく置く。死後、一定時間の過ぎた屍体と思いもよらぬ場所で遭遇した場合を想起すればその答えは明らかだろう。忌まわしい、穢らわしいという語彙を抜きにしてその時の感情を嗅覚や視覚による表現だけで言いつくすのは至難のはずだ。
 思うに神話世界の黄泉国伝承から由来づける「死穢」観とは、日本人のそうした「言い尽くせない感情」を説明するのに最適にして最良の方法だったのではないだろうか。
 表面上は科学や人権意識のおかげで「近代人」の顔をしている私たちも、一皮剝けばかつての祖先達と何ら変わりない心性のままでいるような気がする。