BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№109「ガチです、TORII考」

 このたびのテーマ「とりい」。正面から取り組むことを逃げてばっかりの「よこみち」ではあるけれど、今回はそうもしていられない。なぜかと言うに、ある程度お里の知れるものであればこそ、ちょろりと横からくすぐる面白さもあるのだが、今回本編「華表」の問題はなかなか一筋縄ではいかない。これで端っから横に逸れてしまうのはどうも敵前逃亡のようでよろしくない。なによりも仏教神道のいずれにもまたがりそうな本テーマ、『真俗仏事編』の真骨頂でもある。というわけでがっぷり四つに組んでいこう。

 先ずは本編解説の腑分け。
 「華表」を「とりい」と読むこと自体初っ端の問題ではあるがそれはさておいて、華表諸説は以下の通り。

A  路筋を知らせるもの。by『古今注』
B 塚墓の標識。by『事物紀原』 ※割注の『事物紀原』十の所説を含む
C 「一心」文字形あり。byある神道
D 相応の華表という形あり。
E 一柱の形あり。by『列仙伝』
F 二柱の形あり。by他図
G 華表を鳥居と称する。by丁令威化鶴の故事
H 石造りの華表は忍性に始まる。by『元亨釈書』 ※『事物紀原』鼈頭注を含む

 およそ以上の八説。記載分量はさほどでもないけど、挙説の数ではこれまでの『真俗仏事編』の中でも特別の豊富さ。だがこれのすべてを子登が博捜してきたものかというとどうもそうではない。その書名こそ出していないものの子登が下敷きにしてい先行の書籍がある。それはこの連載でもいく度か触れた『谷響集』だ(書目を明らかにして引いている場合でも、本編№2「庚申」、№3「鬼門」、№12「荼吉尼」、№72「十三仏」の例がある)。

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 具名を『寂照堂谷響集』全十巻。編著者・泊如運敞(はくにょうんしょう)の手によるもので、元禄2年(1689)に刊行された。その巻第三に「華表」の項がある。そこでは設問に本朝の鳥居と中華の華表との規製の違いを問うている。その回答の要旨は、
 a 『古今註』(※『古今注』と同じ)による華表の形状解説。
 b 前掲『古今註』説と『列仙全伝』所載の図、および他図により、華表の柱が一本か二本かの考証。
 c 前説を踏まえ『元亨釈書』により鳥居と華表とが同意となったことを解説。
 d 丁令威の化鶴の故事。
 e 『景福殿賦』とその註による華表の説。
 以上の五つであり、このうちeだけは『真俗仏事編』に引かれていないが、a~dはみな多少の加工を施したものはあるものの子登が踏襲している所である。と、そんなこともコミコミで探っていこう。
 また華表もしくは鳥居に関する考証はここに挙げたばかりでなくさらに多くあるが、ここではそっちの「横道」には逸れずに、本編の所説に向かっていきたい。
 A以下の各説に進む前に、もう一つ『古今注(また註)』を見ておきたい。この書は西晋・崔豹の編著だが、『谷響集』以来の典拠であり、主たる華表説の大元にもあたる。

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 それは『古今注』全一巻中の巻末にある「問答釈義第八」の一つの設問である。「程雅問うて曰く」で始まる一段がそれだ。較べてみればわかるように『谷響集』「華表」aは、これの全文引用にあたる。
 ここで問題にされているのは尭帝が設けた「誹謗の木」というものだが、これは天子の過失を書き表す木のことを言う。民に政治の過失を書かせ、自らの反省に資したというのだから名帝・尭にふさわしい故事ではある。その誹謗木が今の華表木だと言うのだが、その形状を『古今注』は次のように言う。
 横木を柱の頭を交え、その形は桔槹(けっこう)に似ているという。桔槹は図のようなはねつるべのことを言うらしい。『荘子』にも出てくる名称なのでおよそこのイメージでいいのだろう。いわゆるT字形である。このT字形の組み木に(どのように書いたかわからないが)天子への諫め言を書いて大通りや十字路に立てる。秦代にはこれが除かれたが、漢代に復活し、西晋(265- 316)に至っては「交午」と呼ぶようになったということだ。
 ということで『真俗仏事編』「華表」諸説の林に分け入っていこう。

A  路筋を知らせるもの

 ここでは『古今注』を典拠とすると言うものの、「誹謗木」説ではなく、「衢路を表識す」と言う文言から「路筋を知らしむる」ものと説いている。すでに『古今注』とそれを元にした『谷響集』の「華表」説は見た通り。そこでわかるように、先行する二つの文脈からは「路筋を知らしむる」という意味は取りにくい。ここはあくまでも治政者への諫言を表記するもの、という意味でしかない。だが子登の解釈もわからないでもない。

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 なぜならここで言う「発心・修行・菩提・涅槃の四門」という箇所だが、これは仏教式葬儀の際に仮設される四門のことを言っている。その形態は図に示した『諸回向清規』巻四「龕堂火屋之図」の一部に見えるように、「発心」以下の四つの門を葬場の東南西北に順に配置し、釈迦の一代記になぞらえるものだ。この門の造りが鳥居によく似ている。現在では少なくなったが、まだ行なっている地域はあるだろう。子登はおそらくこれの連想から華表に結びつけたのではないだろうか。

B 塚墓の標識

 今度は『事物紀原』が出てきた。これまた『真俗仏事編』では度々登場する書目だが、これは宋の高丞撰、原本は20巻217事、現行本は10巻1765事と言うもので、代表的な類書の一つ。これを墓前に建ててそこが墓所であることを示すものという。ここに『古今注』を割注に引いているが、この説は『古今注』にはないので、本編の「後人」以下が『事物紀原』の説ということになるだろうか。ただ墓前の標識説は『捜神記』や『南史』にも見えるので、それなりの由緒を持つものらしい。

C 「一心」文字形あり
D 相応の華表という形あり

 はて、C、Dとなるととんと弱ってしまう。手元の資料では追いつかないのでここはひとまず保留にするしかない。果たして神道の鳥居からアプローチすべきか、あるいは華表の形態バリェーションなのか。どなたかお分かりであればぜひご教示いただきたい。

E 一柱の形あり。by『列仙伝』

 今度は『列仙伝』だ。この書、本編では「図」のあることが記されているので、明代に編集され慶安3年(1650)に和刻本の出た中国仙人の伝記集、『有象列仙全伝』全九巻のことかと思う。この書のどこに「華表」の記載があるかと尋ねてみると、それは第二巻の初めにある「丁令威」の伝にあった。つまりこの後に出てくるGの説と出典は同じなのである。そこでGを先取りすることになるが、仙人・丁令威の伝記を『有象列仙全伝』より以下に引いてみよう。

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 「丁令威はもと遼東の人なり。道を霊虚山に学ぶ。後、鶴と化して、帰りて華表に集いて吟じて曰く、“鳥有り、鳥有り。丁令威、家を去て千歳。今来たり帰る。城郭、故(もと)の如くにして、人民、非ざるなり。何ぞ仙を学ばずして、塚、纍纍たる”」。
 そしてここに付載された図像が添付のものである。一本の角柱様の上に鶴が停まっている。これが一柱の形というのだろう。 

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 簡単なネット検索で画像を探れば、華表でヒットするのは写真(天安門広場の華表)のようなものだ。今日の中国ではこうした一本柱のものがポピュラーなのだろうか。

F 二柱の形あり。

 これまたこまった。本編では「他図」とあるのみで、その典拠を記していない。『有象列仙全伝』所載の他の図のことなのか、あるいはまったく別の他図なのか。これまた保留にしなければならない。

G 華表を鳥居と称する。

 ここでさきほどEで紹介した丁令威の故事が出てくる。この故事をもって華表を鳥居と名づけるという。ここで初めに紹介した『谷響集』のd説をもう一度見てみると、そこには次のようなコメントがあった。
 「但し、華表は、横木、二柱を貫いて柱端、花状の如くす。その鳥居は、横木、柱上を蓋う。これを異にするのみ」。
 これに『元亨釈書』の記事Hが続いて、「ゆえに近世の文士、皆な鳥居を呼んで華表と為す」とするのが『谷響集』だ。子登もこれに倣っていると言えるだろう。
 この説について、『神道史大辞典』(2004年刊)「鳥居」項(稲垣栄三執筆)では、日本の伝統的な辞書類が「華表を鳥居と読ませているが、鳥居の起源を中国の華表に求めようとした誤解に基づく」と指摘している。「鳥居」の語源についても未だ定かではなく、「鳥の居るところ」というなんとも読んで字のごとし的な説が有力なようだが、あまり深入りしないでおこう。

H 石造りの華表は忍性に始まる。

 でもって今度は『元亨釈書』だ。これは仏教界ではよく知られた本邦初の仏教僧伝集。虎関師錬が元亨2年(1322)に朝廷に上程したのでこの名がある。全三十巻のうち、忍性の伝は巻第十三にある。その永仁2年(1294)の事跡に次のように記している。

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 「この寺の大門の外に衡門有り(割注:俗に曰く、鳥居なり)。鋸木宏材、歳久しくして朽頽す。性(忍性)、新意を出だして石を以て之れを新たにす。高さ二丈五尺、堅確瑩滑なり。国人、目を拭う」

 この記事が典拠なのだろう。本編が付する『事物紀原』の鼈頭は追いかけるに及ばない。念のため、『元亨釈書』の詳註として名高い『元亨釈書便蒙』(1717刊)に、この「衡門」の註を見てみると次の通り。
 「本注に、“俗に曰く、鳥居なり”。○朱子が詩注に曰わく、衡門は木を横たへて門と為すなり。(陳風)『谷響集』の三に、鳥居・華表柱の義を辨ず。往きて見るべし」
 これをもってすれば、〈鳥居‐華表〉説における『谷響集』の影響の大きさがわかる。

 というわけで不完全ながら、本編の文脈はほぼトレースできたことになる。他に『十王経』の所説などおもしろいものはまだあるのだけど、それはまたいつかに取っておこう。
 たまたま今宵は耶蘇降誕会のお逮夜(クリスマス・イブと言うらしい)。こと近年は宗教上の理由から物騒な話題に事欠かないが、せっかくの静かな夜。西域の般若湯などいただいて過ごそうかな。