読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№110「古い人間とお思いでしょうが」

f:id:ryusen301:20161226061950p:plain

 「生まれ変わって花になる」
 「自然の大きな循環の中に回帰する」
 自然葬の魅力をアピールするコピーはなかなかキャッチだ。
 今回の本編もまさにこうした自然葬が「上品」の葬法なのだと後押しをするような典拠になりそうだ。
 実際には身肉を焼却して残った焼骨だけを原野山林あるいは河海に捨てるものらしいから、本編で言う水葬や林葬のように、「身肉を有情に施す」とは似て非なる事は否めない。今日的な自然葬のスタンスは、あくまでも施される「有情」の側にあるのではなくて、「施す」主体側の心情にあるのだと思う。
 こんなやや皮肉めいた言い方になってしまうのは、私の中に自然葬に対するかすかなな疑念があるからだ。自然葬という考え方に対する一種の「胡散臭さ」が。
 それは20年以上も以前、自然葬が話題になり始めた頃から感じていて、僧職以外の仕事の一つとして、葬送に関するある研究委員会に所属し、樹木葬や手元供養など、伝統的な墓石葬法に関わらない「新しい」葬法の情報に接するようになって、いっそうその違和感を抱えていた。ただその違和感の正体がなにに由るものか自分でもはっきりと言葉にしてきたわけではない。よこみち№107「礼塔」でも触れたが、あらためて今回のテーマに遇って、その正体をきちんと考えてみたい。
 その研究委員会の席上、話題になった一つに自然葬を実際に行った後の遺族の思いに関する追跡調査があった。その葬法は、火葬の際に焼骨を灰状にし(火加減で調節可能だという)、沖合まで出た船の上から海上に振りまくというものだった。当初はその一回だけで終わる予定だったのが、遺族からの要望強く、翌年、翌々年に一周忌、三回忌の供養が求められたという。そうした伝統的宗教儀礼に規制されないという意味での「自由」な葬法を勧めたはずのその自然葬業者は、おそらくいろいろ考えたのだろう、遺族を船に乗せ、散骨(灰?)したあたりの海上ポイントまで行き、そのポイントを船で三周して花を投じるという方法を編み出したという。遺族達はその行為によって、故人への思いが遂げられたような気持ちになったという。これはりっぱな宗教儀礼にほかならない。だがこうした場合においても、遺族にとって故人の居場所がピンポイントに特定されていない状態では、遺族は故人に逢うためにどこへ行けばいいのか。この追跡調査の情報は文書データではなく口頭で交わされたものだから出典はわからない。またこうした場合だけでなく、「故人は自然に帰った」と得心している遺族の例もあるだろう。
 そもそものお墓の起源と云うことを考えてみたい。と言っても人類学的な知見をまで求めようとするものではない。ちょっと素朴に想像してみるだけだ。たぶんその初めは、死んだ人は野ざらしだったり、森の中に捨てられたり、土やあるいは河川に海に、という具合に文字通りの自然葬だったはず。それがなぜ「墓」が求められたのだろうか。そこに行けば故人に逢えるという場所が欲しかったからじゃないだろうか。
 生前親交のあった者と死別する。これは仕方のないことだけど、その故人への思いを様々な形で自分の中に宿して私たちは生きている。親・兄弟・子ども・配偶者、血縁ではなくとも親しかった人々。そんな死者たちがこの世に残った者の生き方・考え方に強く影響を与えていることは誰でも知っている。そんな「死者の思い出」の連鎖の中に私たちはいる。それは自然界の食物連鎖よりもっと強いつながりのように思う。
 そのような「死者の思い出」は、とりつくよすがのない茫漠としたものよりも、〈そこにそれと在る〉方が遺族としてはイメージしやすい。死者の輪郭がはっきりするということは、死者が自分に語りかけてくる言葉も鮮明になるということだ。「墓」が求められたのはそうした理由があったのじゃないだろうか。それはかなりの長い時間をかけてかたちとなってきたはずだ。今に到ってそれをやめようというのは、たどってきた道のりを逆行しようということになりはしないか。
 「思いの連鎖」ということを考えてみたが、これが相続されていくというのは、家族に代表される身近な共同体が世代を超えて持続していくという背景があって成り立つことだ。家族やそれに代わる共同体が持続していかないということはどういうことか。ここで行き着くのが当世話題になっている個化、私事化ということ。少子高齢とか不婚とか社会的要因はそれぞれだろうが、自分より以前から自分より以後へなにかを引き継ぐということについての責任感もしくは使命感が希薄になっていることがその大きな原因と考えられないだろうか。
 そんな「思いの連鎖」から孤立してしまう後ろめたさが、どこかで「自然に回帰する」という言い方にすり替わっているような気がする。私の抱える「胡散臭さ」はたぶんこの辺に由来するのだと思う。

 もっともよく考えるとこうして述べているのも、自然葬という新しい考え方になじめない「古い人間」の繰り言なのかもしれないけどね。