BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

元政廟に詣る

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f:id:ryusen301:20170130065203p:plain たのもしなあまねきのりの光には 人の心の闇も残らじ

 年来の願いであった京都深草の瑞光寺。このたび初めてお参りすることがかなった。ちょうど同じ用事で訪京していた友人Sさん夫妻とご一緒だった。
 日蓮宗、元政庵瑞光寺。
 思いのほか静かな住宅街にある瑞光寺。これさえなければ閑静な、と表現してよい環境を、奈良線の線路が境内だったろう敷地を斜めに分断している。山門は小さいながら茅葺き、ご本堂もまた総茅葺き。一月下旬の寒空だが日差しは明るい。錦鯉の泳ぐ池を参道がまたいでいる。あらかじめご住職は留守と伺っていた。奥様と思しき人に「元政上人のお墓をお参りしたいのですが」と言うと、線路向こう側を指して教えてくれた。いったん地下道の階段を降り、線路をくぐって反対側へ出たところに元政廟所はあった。

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 僧、日政(1623~1668)。
 日本仏僧史上、最も親、就中母親に孝養を尽くした一人として知られる。
 もと彦根藩主井伊家に仕え、後、日蓮宗に出家し、元政の名を日政に改める。
 仏教学はもとより漢詩文にもすぐれ数多の著作、校訂書がある。時の文人とも交流繁く、享年四十六歳の短さが惜しまれる。
 京都深草に一宇を結び、傍らに居室を建て両親を迎える。先に父を喪い残った母に孝養の限りを尽くす。

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 青山霞村著『深草の元政』(明治42年刊)に元政と母との交流を語るエピソードのいくつかを拾ってみる。

 ⊿病を養うて鷹ヶ峰に居られた時、母を憶うて深草に返った夢を見て詩を作られた「昨夜三更の夢、分明に深草に帰る。夢覚めて久しく寝らず既に寝て暁を知らず、憶得たり母の吾を愛することを、未だ懐抱に在るに異ならず、一日相見ずんば人の至宝を失うが如し」云々。然るに其日母は元政を尋ねて行かれたのである。「余母を憶う時を作り、吟じ已んで乃ち紙筆を命ず。墨痕未だ乾かざるに吾母忽然として至る。余驚き起って駕を階上に迎え手を執って相喜ぶ。而かも吾れ病来殆ど四十日、偶此日に於て浄髪澡浴して軽し単衣を着す。灑々落々曾て病ざる者の如し。母熟々視て悦ぶこと甚し。於乎吾れ一念相念へば母即ち至れり。豈感ずる所なからんや詩を作って喜を記すという」

 ⊿憂懐掃うべからず、徒らに失う母を憶うの詩、詩就いて涙睫を拭う。吟じ罷んで更に相思う、再び吟じて人をして写さしむ、人何ぞ吾悲を解せん、写し已んで墨未だ燥かず、慈母忽然として来る、恍惚として初めは夢かと疑う、夢に非ず復奚をか疑はん、茶を煮て山菓を陳ね、笋を焼て雲糜を具う、老莱が舞を能くせず、諧笑嬰児を学ぶ、奇なる哉母を憶う處、念に応じて相期するが如し、慈母兮慈母、亦た無縁の慈に似たり。

 ⊿丁未の孟夏初三日予北堂に侍す。母の曰く吾れ此齢に至るまで終(つい)に徒(いたずら)に居らんことを欲せず。子も亦た能(よ)く我に似たり。予笑って曰く吾聞く夜生るゝ者は母に似ると、吾れ夜生れたる無きや。母言く然り二月二十三日の夜、子を生めり。我其日適々出でゝ帰る。夜半に及ぶ比(ころあ)ひ覚えずして産す。讃岐の姥という者傍にあり。歯を以て臍の帯を絶つ。寿命を祝すとなり。子必ず長寿ならんと。欣然として話暮れに及ぶ。

 ⊿ある時は山に遊ぶと躑躅(つつじ)を折り磐梨(いわなし)を採って帰って母に供し、谷口の翁が栗や菊を贈ると直ちにそれを母に奉る。母の方では元政の誕生日には自ら社中の弟子達を饗応せられることは述べた通で、また小僧が法華経全部を習ひ終わると、祝いに小豆粥を煮て社中の衆に供せらる。こんな風で元政の家庭は實に美しい楽しいもので、儒家にも恐らくはこんなのはなからう。元政は高槻や鷹峰で病を養ふ時も僅か一日や二日醍醐宇治へ遊びに行かれた時も或は有馬に行かれた時も、常に母のことをいつて居られる。外に居って自ら孝養を欠く時は山中の弟子達に念のために手紙で頼まれて、その念々母を離れたことがない。元政は内に居るも外に遊ぶも寝てもさめても造次顛沛(ぞうじてんぱい)母を思われたので母もまた同様であった。

 ⊿母が十二月四日死なれると二七日から病に罹って、まだ百日も経たぬ中に死なれたのは實に不思議の因縁といはねばならぬ、母を失はれた時の悲が如何にあつたかは何の記録もない、しかし和歌が七首造ってある。
  母のなくなりぬるころひとのもとより五首の歌よみてとふらひいけれは返事に
 先立たばなほいかばかり悲しさの おくるるほどはたぐひなけれど
 いまはただ深草山にたつ雲を 夜半のけぶりの果てとこそ見め
 なにごとも昨日の夢としりながら 思ひさまさぬ我ぞかなしき
 いかにしていかに報いん限りなき 空を仰ぎて音には泣くとも
 たのもしなあまねき法の光には 人の心の闇ものこらじ
  母のなくなりてのち
 惜しからぬ身ぞ惜しまるるたらちねの 親ののこせる形見と思へば
おなじとしのくれに
 冬深きやとにこりつむ山かつの なけきのなかにとしもくれけり

 生前の母との交情を綴る描写が細やかなだけに、母との死別の思いを察するに惻々たるものがある。その悲しみの重さが死期を早めたのだろうか。
 「たのもしな」ではじまる一首はこの時の作。かつて元政を身ごもる際に母が夢に見た観音の言葉〈たのもしな〉がもとになっている。

 母を思う子の心情に乗せて人々に歌いつがれてきたこの和歌が、はるか時を経て大正14年、細川道契の筆によって『観音信仰講話』の一節に書きとどめられた時は作者元政の名は無かった。

 石柱に囲まれた元政の塚には、その伝にあるように墓塔はない。伝に合わせてしつらえたのだろうか、細い竹が植えられてあった。

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