BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№113「オムカエデゴンス」

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 来迎の場面とは多くの場合迎えられる者にとって<のぞましい>ものとして描かれることが多いというイメージがある。浄土教系の往生観念を下敷きにした来迎図のバリェーションがそれだ。もっともこのことはビジュアルとして世に出回っている媒体が多いと云うことであって、実際に来迎の場面があのように壮麗にして救済の恩恵を喚起させるものであるかどうかは定かでない。

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 なぜなら臨死体験のリポートなどを読むと、それぞれある境界から一歩向こう側に誰かの存在があり、その誰かが自分を向こう側へ誘い込もうとしたのだがその誘いには従わずにこちら側へ帰ってきた例があり、そこに報告されている「向こう側」にはさほどの〈悪所〉のイメージが無い。行ってもよかったんだけど戻ってきちゃった、みたいな例が多い。だがそれも結局は「帰ってきた」者達が語る一方的な報告だけで、「行っちゃった」者の例はわからないのだから。

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そうは言っても〈向こう側=悪所〉と物語る例はこれまた数多くある。酸鼻を極めた地獄の様相を語る資料は、たぶん来迎図をしのぐほど多くあるだろう。本編の火車はその悪所から使いであり、さらに悪いことには悪所に至るよりいち早く到着先での地獄の業火を体験できる特別シート仕様の<おぞましい>車なのだ。

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日本では妖怪の名前にもなり、また中世の文献にも登場するのでその絵姿はそれなりになじみのあるものだが、釈尊の時代にはどんな姿で思い描かれていたのだろう。阿含部の経典には「火車」の用例が散見されるのでそのイメージはあったはずだが、寡聞にしてまだそのビジュアルを見たことがない。あるいは既に見知っているものがそれにあたるのだろうか。
 そんなことを考えていたら冒頭の画像に上げた手塚治虫のスパイダーなるキャラクターが、善玉でも悪玉でもないことに気がついた。ストーリーとは何の脈絡もなくぬっと現れるこいつ。だがしかしあらためて思う。「お迎え」ってのはそんなものかもしれないなと。