BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】ちょっといっぷく(五)反省

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とういうわけで本編『真俗仏事編』巻四「送終部」を読み終わり、次回からは巻五「雑記部」へと移ることになる。これまでの例にならって本文の文脈からは離れて一息つくのがこの幕間だ。
 この連載やそしてその元になっているfb「仏事習俗アラカルト」でもいくどか表明してきたことだけど、ここのスタンスというのは「正統な仏教からはちょっと外れたこと」というやや自嘲めいた思いが少なからずあった。ここでいう「正統な仏教」というのは、おかたい仏教学の先生達が専攻している文献資料を中心にした教理的研究というものを漠然とイメージしていて、それは日本仏教の宗派単位においてもたとえば曹洞宗の場合であれば、『正法眼蔵』なんかを対象とした教義研究などがそれで、そんな「中心的なところ」では扱わない(=ちゃんとした問題と認識されない)葬送や雑多な信仰に関わる仏事習俗といういわば「周縁的なところ」を主な関心領域にするんだ、というスタンスだ。そしてそんな「中心的なところ」を対象とする学問が(正統な)仏教学で、「周縁的なところ」を対象とするのは宗教学・文化人類学民俗学などだ、という思い込みがあった。
 だが近頃そんな前提を反省をこめて見直してみようと思っている。そのことをこの機会に白状しておきたい。今述べたように、中心と周縁という対比に、仏教学と非仏教学という対比を重ね合わせてよいかどうかということを問い直してみたいのだ。
 このきっかけになったのは下田正弘「生活世界の復権」(『宗教研究』№333、2002年9月)という論文だ。〈※15年も前の論文に今頃気づいている自分の不勉強さが恥ずかしい〉
 下田氏は『涅槃経』を主とした古代インド仏教文献の研究者だが、この論文は仏教学全体のある傾向を批判的に指摘し、新しい仏教学の方向性を提案しているものだ。「論文要旨」の一部を引こう。

 近代仏教学は(中略)いつしか仏教を古代インド文献の中に閉ざされた過去の現象として捉え、歴史的現実の中に生成変化する仏教を考察の対象とすることがなくなってしまった。

 この指摘は論文本文の中で詳しく展開されるのだが、たとえば次のような記述にはこのサイトに関心を寄せる方であればきっとうなづくのではないだろうか。

 たとえ文献研究の意義、さらにその中でも教義や思想研究の意義を認めても、それのみで成り立つ宗教があり得ないのも事実であり、何よりも教義の意味はそれが具体的現実の中でいかに働くかによって決定されるという側面を忘れてはならない。さらに長い歴史的現実の中に一歩踏み込めば、教義が現実を変えるばかりでなく、現実によって多少なりとも教義が変えられることも決して珍しくはないことに気づかされるはずである。こうした要素を漏らさないで考察していくためには、思想や理念としての仏教と、生活経験の中の仏教とを一つの企図において把握する試みが必要となる。
 ところが近代の仏教研究においてはこうした自覚が欠如し、研究者たちはほとんど思想研究のみを仏教研究として認める一方で、その思想の背景をなす生活環境や、あるいはその環境の中で息づく仏教は研究の対象から除外し、宗教学や文化人類学など他の学問分野に委ねて関心を抱かない。

 さらに次の指摘はいっそう鋭い。

 「真正で」「正しく」「本質的な」仏教を生活世界からすっかり切り離した上で、思想的、教義的なテクストの中に求めていこうとする態度は、今日の仏教研究の底流にある態度である。こうした研究を推進する研究者たちは、仏教を過去のテクストの中に閉じ込めた上で、さらにその時代の生活世界から切り離すという二重の操作を無意識に行っていることがわかる。しかし言うまでもなく実際の仏教は、変わり行く歴史的、文化的な状況の中に巻き込まれながら今日まで存続しつづけたのであるから、この二重の操作はそのまま二重の過失に繋がってしまう。
 
 もう一箇所引いておこう。

 この流れを素直に引き継ぐわが国の仏教研究は、現在のわが国の仏教を相手とすることはほとんどなくなってしまった。現代の仏教は宗教学か民俗学か、いずれにしても仏教学以外の領域の問題である。そして現在を相手とする学問領域から浮かび上がる仏教は、現在に巻き込まれているという意味で常に生活世界に存在するものであるから、過去の、理念的なテクストにのみ仏教を結晶化させる仏教学の立場から眺めたときには、多様で、曖昧で、不純な姿をした者に映ってしまう。そしてそうした姿の仏教は、ただそれだけで仏教学の相手とするには値しないものと判断されるのである。

 以上は論文のほんの一部でしかないのだが、私がこの紹介を通して伝えようとする意図はおわかりいただけるのではないだろうか。
 このサイトで主な関心領域としているのは、ここに引いた「近代仏教学」が「相手とするには値しないもの」と言える。それは自ら認じているところであったのだが、そうした認識自体がこの論文の指摘する近代仏教学の過失の上に成り立っていたものだということをここでしっかりと反省しておきたい。その上で多様で曖昧で不純な姿と評価されることの多かった「仏事習俗」を、仏教学の領域内の問題として取り上げていきたい。