BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

下田正弘「伝承といういとなみ‐実践仏教学の解釈学‐」 『親鸞教学』93、2009年3月

 著者注「本稿はそ(引用者注:下田「生活世界の復権‐新たなる仏教学の地平へ」『宗教研究』№333、2002年)の続編をなす」

 エドモンド・リーチは社会人類学の叢書の一冊において『実践宗教における弁証法』という著書を編み、そのなかでヨーロッパにおける仏教研究の特徴を次のように指摘しました。
(中略)日常的仏教の現実については、ごく最近までほとんど注意が払われてこなかった。唯一の〈真正な〉形態の仏教は、パーリ語文献から抽出可能な哲学的神学である一方、たとえ仏教の諸国に存在しても文献に確認することができない宗教実践の要素は、いかなるものでも堕落した世俗的な捏造物であるか、あるいはアニミスティックなヒンドゥー教銘仙の残滓でしかない、と考えられてきた。
 この書物は分量としては小さなものですが、アジアを対象とする欧米における仏教研究の流れを、それ以前の文献研究一辺倒から大きく転換する契機を与えた、一つの記念碑的論文であると私は考えています。

 グレゴリー・ショペンが、ふたたび同じような視点からこの問題をとりあげました。それは「インド仏教研究における考古学とプロテスタント的前提」と題する論文に発表されました。冒頭にかれはこう記しています。
近代の学者たちによってインド仏教の歴史が研究されてきた方法は、決定的に特異なものである。なおいっそう特異なのは、だが、それがまったく特異だとはみなされてこなかった事実の方だ。この特異さは一種類の源泉資料にたいする 、〔研究者たちの〕一見して奇妙な、議論の余地のない好みらしきものにおいて歴然としている。

 仏教が歴史の中に結実してきた実態を正確に描きだそうとするなら、リーチやショペンがしめすように、規範的、理念的な文献の記述を再現するのみではなく、生活経験においてその理念がいかなる形で機能して北を問題にしなければなりません。そもそも「聖なる世界」は「俗なる世界」とともにって意味をなすものであり、この両者間においての緊張関係、リーチの表現を借りるなら「弁証法的関係」によってその存在意義が明らかになるものです。聖なる世界のみをいかに丹念に描いても、それが生活世界から分離されているかぎり仏教の全体像はあらわれてこないでしょう。文献を根拠として理念、教理、哲学として整えられ続けた仏教を、もういちど生活世界という文脈にもどし、そこにおいて理念が、いうなればいかなる身体をともなってあらわれているかをみなおさなければなりません。

 宗教人類学者の佐々木宏幹氏は、日本の仏教研究の現状をふりかえりながら、「生活」という視座を確保し、「生活仏教」を対象とする必要性を、あらためて論じました。佐々木氏の理解によれば、「生活仏教」なることばでしめされるところは、「人々の生活の中に生きている仏教を意味し、具体的には各地の寺院と僧職者、および寺院‐僧職者に直接・間接に関わる檀徒・信徒や一般人、さらに場合によってはこうした人びとが仏教儀礼)との関わりにおいて信奉する種々の民俗宗教職能者をも含むカテゴリー」を指します。
 私がここで取り上げた「実践仏教」という概念は、この佐々木氏が提唱するところと一部重なるものです。

 こんにちの学会における仏教研究をみるなら、〈真実の〉、〈本質的な〉、〈真正な〉仏教を、生活世界から切りはなしたうえで思想的、教義的なテクストの中に求めていこうとする態度はいまだに強固です。

 こうした研究態度を進める仏教学者たちは、仏教を過去の一部のテクストのうちに閉じこめたうえで、さらにその時代の生活世界から切りはなすという二重の操作をおこなっています。

 仏教が歴史の中に存在してきた以上、世俗生からは完全自由ではあり得ないという基本的な事実を、研究者はまず考察の前提に据えおく必要があります。
 
 ここで第一にたいせつなことは、「世間にかかわるもの」は「世間そのものではない」のと同時に「世間的でもなければならない」という両面の自覚です。仏教が世俗とかかわりをもつことは堕落などではなく、歴史的現実として重要な側面です。
 第二に銘記しておくべきことは、こうした仏教を観察しようとする研究者自身が、仏教と同様に生活世界に存在するという事実です。けれども〈真正な〉仏教を探求しようとする研究者たちは、研究対象を不変の世界に属するものとして、世俗性、状況性とも無縁の仏教を抽出しようとします。これは翻ってみれば、研究者が状況世界に依存することなく仏教を選び出しうる特権的立場に立っていることを物語っています。
 これら二つの点に無自覚であれば「歴史として生成されてゆく仏教」、つまり伝承として存在する仏教を理解することはできません。生活経験世界にあらわれる仏教は、世俗と拮抗しながら、その緊張関係に立ち続ける仏教です。

 タンバイアの関心は「現世に根づく民間宗教を信仰する人々は、どうして現世を放棄する宗教に心を奪われてしまうのか」というまことに素朴ですが重要な疑問に向けられます。つまり、現世の利益を保証する宗教が存在すれば、この世を生きてゆくに十分なはずなのに。そしておすした宗教はそれぞれの土着文化においてすでに存在しているはずなのに、なぜ人はそれを捨て去って、禁欲的で厳しい「出家」を説く仏教などに惹かれてしまうのか、という問いを建てているのです。言われてみればたしかに不思議な事態です。
 
 タンバイアは、仏教徒儀礼的、宗教的行為には矛盾・対立する二面があり、それらは仏教の基本を構成する〈仏・法・僧〉の三宝において、相互に矛盾する要素として現れているという、まことに注目すべき特徴を指摘します。まさにこれこそ実践的宗教の弁証法的特徴です。その具体的な理解をみてみましょう。
 生身の〈仏〉、すなわち釈尊は、涅槃という理想に到達したものの、すでにこの世に生存はしていなく、その意味ではまったく無力です。ところがその一方で、仏の物象化された形態であり、生命を欠いているはずの聖遺物や仏像は、現に〈魔術的〉力を有したものとして仏教徒たちには受容されています。
 聖典となった〈法〉は、第一義には死と欲望の克服、および涅槃の獲得による現世的束縛からの解放と救済とを説きます。しかしまた他方、一般の人びとにたいしては、現世におけるよき生活を保障する力の源泉となり、現世を正しく送るための倫理を与えるべくはたらいています。
 〈僧〉は、本来は出家行の実践をとおして、現世的欲望を捨て去ったはずの人びとです。ところが在家者にその力が振り向けられた場合、かれらの存在は在俗の世活をより理想的に実現し、現世での願望を実現する力となります。
 このように、三宝は、整然とした単一の意味体系のなかに固定的に据えおかれているのではなく、その体系を離れ、現実に存在するさまざまな要素と関係を取り結びながら、あらたな体系を構築しつつ機能しているのです。

 仏教を歴史的ブッダが説いた思想に限定し、〈原始仏教〉のみを本来の仏教として認めようとするのは、仏教を意味生成活動のすでに終了した過去に封じ込めるものでしかありません。

 インド仏教文献内部の歴史に加えて、仏典が伝播したインド外の広大な諸地域において誕生した文献群を加味するなら、仏典の形成は異文化間における、多様で異質な要素の創出とその要素間の相互運動から成る、巨大な歴史空間としてあらわれてくるでしょう。
 仏教は、過去と現在、文献と文献外資料、異なった文献、同一文献内の異なる要素というそれぞれの間において、テーゼとアンチテーゼとがはたらきあう運動としてとらえる必要があります。この立場から仏教を描きとるためには、仏教にゆいいつの純正な定義を与えるのではなく、異なった力がはたらく一つの〈力学の場〉として解明する態度が求められます。彼岸と此岸を分離してしまうことなく、弁証法的ありようをしているという意味で、実践的な次元でとらえる必要があります。

 近代仏教学がみいだすことのなかった「生活世界における実践的仏教」という視点を導入するとき、文献資料、文献外資料の区別にかかわりなく、仏教は諸力のはたらく場として理解され、単一のアイデンティティをもった静的な実態としてではなく、異なるベクトルを内包する運動体として描き直されます。
 注意しなければならないのは、ここでいう生活世界は、世間と出世間という、次元と種類が異なる諸力が集合する場を意味するのであって、けっして世俗と同義ではない点です。生活世界における実践的仏教を理解するさいに重要なのは、世間的価値と出世間的価値とが異なった二極としてせめぎあい、反発しあい、影響しあいながらはたらく事態を把握することです。仏教を世俗世界からのみとらえよ、というのではありません。

 現実の仏教教団を「堕落」として批判する人たちは、これまで述べてきたように〈真正な〉仏教を求める、原理主義にとらわれています。しかしそこで求められている仏教は、多くの場合、書物に閉じられ、個人の理念に閉じられ、ほとんど知識人の頭の中に存在する仏教でしかありません。

 仏教が一方で徹底して現世を否定し、彼岸に向く価値を有しているからこそ、他方ですでにさまざまな力がはたらきながら均衡をたもっている世俗世界に突入し、あらたな運動を起こし、世俗内に存在しなかった倫理を生み出せるのです。 
 一方、世間はあらゆる現世的な価値を総動員して出世間たる仏教教団に向かい、出家教団のもつ力を世間に向けなおし、つねに巻き込んでいきます。禁欲的に小欲知足に向かう力を、正反対の豊穣な生産性のなかに誘導し、多様性を持った表現へと変容させます。

 最後に、テクスト研究と現代のとの関係をめぐる問題、そして仏教の異文化への伝播という観点から。ひとことずつ言及しておきましょう。

 テクスト解読という作業を、過去のテクストと現在の読み手のあいだに生ずる葛藤と運動の展開として、意識的に分析、叙述するなら、過去のテクストを読み、現代語に翻訳するという作業そのものが、現代への批判的な関わりになります。

 仏教の伝播とは(中略)インドで生まれた仏教が、まったく異なった言語、歴史、社会、文化のなかであらたに仏教として生まれなおすできごとであり、伝播先の世界を母体としての再誕だったのです。