BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№125「五体投地」

祖父の真前にお参りをしたいと、生前親交のあったご老師がお見えになった。黒衣に木蘭色のお袈裟に改められたご老師を、開山堂に並んでいる歴代住職の位牌の前にご案内した。ご老師はおもむろに礼拝をし始めた。座具を展べて両膝を着き、両手を仰向けて床につけ、額をつけて拝む。禅宗式の五体投地。その時、耳を疑うような音が聞こえた。
 「ゴッゴゴゴッ」
 板の間に何かがぶつかる音。礼拝の度に聞こえる。なんだろうとよく見ると、ご老師は額をつける時にかなりの激しさで頭を床に打ちつけていたのだ。その反動で頭が跳ね返るが、なおそれを押しつけようとするのでこのような音になる。言ってみればキツツキのドラミングの音と一緒なのだった。
 展座具三拝というこの礼拝作法。ご老師のように床に頭突きするような礼拝は見たことがなかった。ご老師の祖父に寄せる思いだろうかと胸中察するところあったが、そのご老師自身は多くを語らなかった。
 本編に見えた五体投地。時にチベットなどでその礼拝が放映されることがある。今いる場所から目指す聖地まで、自分の身の丈の分だけ尺取り虫のように五体投地を繰り返しながら進んでゆく。ほこりっぽい地面にその都度こすりつけられる膝や肘には当て布がしてあり、額は赤黒くすりむけていたのが印象的だった。そのさまは「五体を地に投げる」、いわば自分の身体を信仰のために投棄することを繰り返しているように見えた。
 禅寺でくだんの展座具三拝という礼拝の仕方を習った。五体投地の一種と言える礼拝法である。「お釈迦様の両足を自分の両手にいただくように」という指導の仕方が耳に残っている。その所作はていねいに恭礼のさまを表すに相応しい様子となるが、「投地」と言えるほどの捨て身の様子にはならない。どちらかと言えば静かにていねいに身を床につけていく、自分の身をいたわりながら礼拝しているようにも見える。
 ここで気がつくのは礼拝作法を精美に見せることと、礼拝対象へ寄せる「思いの強さ」は比例しないということだ。彼のご老師の礼拝は祖父に対する思いの強さは感じさせるものの、美しい礼拝とは違うものだ。一方修行僧堂で鍛えられた修行僧が座具や法衣を乱すことなく整然と礼拝するさまは一種の美しさを感じさせ、礼拝対象への敬虔さは思わせるものの、その対象を渇仰するほどの思いの強さは感じさせない。
 儀礼作法のなりたちと、原点にあったはずの信仰とのズレを思わせるようで興味深い。