BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№126「無間と無限」

本編の「無間一切時」という言葉だが、その語彙も文脈上の意味も「間断することのないあらゆる時間」をさす。無間地獄という場合もこれと同じだ。寸刻も休むひまのない地獄。だが無間地獄と聞いて「無限に続く地獄」と受けとめてしまう人も少なくはないだろう。それは必ずしも受け手の誤解というものではないように思う。ムゲンという語は、「片時もとぎれない」という意味と、「永遠に続く」という意味の両方を喚起させると言えるのじゃないだろうか。
 英語のeternalという言葉もそれと似ているように感じるが、乏しい英語力ではあまり深入りできないのでやめとこう。
 ただこの無間と無限の関係を踏まえて今一度本編のテーマをふり返れば、勤行すなわち修行とは、いつでも間断なく、そして永遠になすべきこと。そんな解釈もつけいる余地がありそうに思う。その余地というのは、本編の文意に潜んでいるものではなく、読み手である私たちの側に潜んでいる「無間」の理解にこそあると思う。
 とここまで述べてくると思い当たる人もいるのじゃないだろうか。道元のあの修行観のことである。
 ひねもすよもすがら四六時中の行住坐臥を、坐禅、仏事法要に限らず、炊事、食事、洗面、排泄ほかすべての人間行為を仏作仏行とせよという教えは「無間修行」と言えるだろう。
 前生の善業により幸いに人身に恵まれなおかつ仏の教えに接することのできた今生に深く感謝し、その報恩のために仏行に励む日送りをなし、再びこの善功の報いを得て後生にはまた仏のそばに生れる。生々世々を通じて仏道を貫くというこの発想は「無限の修行」と言えるだろう。
 この二つを含意する道元の修行観は、しばしば「孤高の独自性を持つ」と評されてきたように思う。だがさきほど触れたように、修行の時間を思う時、無間性と無限性の両方をイメージすることは、案外私たちにとっても不慣れなことではなさそうだ。だとすればそんなイメージとしてしか伝えられてこなかったものを、巧みに言語化したのが道元の功績だと言えるかもしれない。