BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

高田道見と赤松月船 1

楢崎一光「第八 二十六世高田道見大和尚」『瑞応寺の今昔』仏国山瑞應寺

 (第二十六世竹内方丈の)後任として迎えられたのが、高田道見方丈で、明治38年5月21日の晋山開堂でありました。高田方丈は当時四十八歳。すでに東京において大変な教化活動をしておられ、その名は広く宗門内外に行き亘っていたわけですから、当山には三顧の礼をもって迎えられたということであります。それは、すでに明治18年頃から、東京芝の青松寺北野元峰禅師の格別の庇護の下に仏教館を創設し、仏教青年会を主催し、通仏教の新聞雑誌を刊行するなどの事業を軌道に乗せておられた時でしたので、東京と四国を兼務往復するという条件で就任せられたわけであります。

 二十六世 高田道見大和尚

 僧堂も心機一転、師家高田道見、准師家楢崎孝如、という体制で発足したのです。高田方丈の徳風を慕い、雲集する修行僧は宗派を越えて多士済々であったといわれます。
 当山鎮守金比羅様は日清・日露戦争中、祈願する参詣者で近郷に広く信仰を集めていましたが、戦争終結を期して平和の梵鐘を発願され、三百貫の大梵鐘奉納を住職最初の事業とされました。殿前の境内を拡張し、鐘楼を建て、各家より小銭などを集めるなどして檀信徒総掛かりで、しかも寺内潜竜池の下で鋳造されたということです。日時を要しましたが、見事な出来映えで、無事撞き始めを行ったのが明治41年11月12日、秋の大祭もまれにみる盛儀であったと伝えられております。一撞き撞くごとに犠牲者の冥福を念じ、平和を祈るという浄行を檀信徒に勧めるとともに、当時四国霊場巡拝者が、年間数万人といわれていましたが、その巡拝者にも、この花尾山に立ち寄ってお参りして頂いて、一鐘梵音の功徳を積まれるよう広く宣教せられたのであります。余談ながら、この名鐘も昭和20年、戦争に協力ということで供出し四阪島精錬所で溶けてしまったわけです。
 続いて翌明治42年には、観音講を組織し檀信徒の信仰を鼓吹するとともに檀信徒規程を作り、葬祭基準を作るという画期的な檀信徒教化につとめられるとともに、山門の内規、例えば仏事禁酒など有名ですが、門風を一段と刷新されました。有名な法王教会を設立し自ら法王子と称して釈尊一仏本尊を主唱し法王経典を編纂し、和讃を作り楽器を用いて伝道せらるる等これまた画期的な家風でありました。
 住職10年を期して大正4年大授戒会を啓建し、教授師に水野利中老師、引請師臺俊道老師を請し、説教には後住になられた松浦百英老師をはじめ、田中、吉川、高島老師方がフルナの弁舌をもって戒場を魅了し、戒弟も遠く関東、鎮西より蟻集して未曾有の盛会であったと伝えています。
 住職十八年間でありますが僧堂も大正7年には佐伯道隆老師を迎えていよいよ充実し、夏冬両度の安居のために寺格を宗門最高の常恒会に昇格して門風を宣揚せられました。その祝賀式は大正9年7月2日で、檀信徒は勿論、全国各地からも絶大な賛辞を受けられたわけです。
 住職就任以来、縁に応じ化をたすけ戒を授け、また瑞應僧堂に衲子を掬養し、街房に居して居士白衣を揀弁す、古きを温ねてしかも常に新たなる接化であり、圓明の見地、等身の著述、けだし仏国門下の出色なりとたたえられています。大正12年4月16日午後6時30分、刻々と死期の迫られるとき自ら病状を記し感懐を録して臨終寸前に及ぶが如きまた最後に合掌して釈尊称名幾遍、枕頭一同を顧視して、「もうお別れ」といって圓寂せられるという生死遊戯自在の御一代であり、後人の追慕して止まないところであります。