BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №134「ドライとウェット」

ときどきその解説に違和感を感じる所のある『真俗仏事篇』だが、今回のテーマがそうだった。
 いわく、「寄付とはあづける義にして、与ふる義にはあらず」。
 これまで寄付とは布施とほぼ同意で、したがって「喜捨」ということだと思っていた。たとえば寺院に何かがしかの金品を寄付する。それは喜捨、文字通り「喜んで捨てたもの」であるから、それがどう使われようと関知すべきではない。すでにその所有権は放棄したのだから、寄付した当人はその後何の関わりも持たないのがほんとう。と、そう思っていた。だがここでは与えるのではなく、あずけるのだという。このニュアンスだと「信託」「預託」という用語に近いことになる。これであれば、寄付者は自分の金品を預けた上で、それが自分の利益になるように運用されているかどうか監視する権利が保障されているように思える。ふむ、寄付とはそういうことだったのか?
 併せて思えば「義捐金」という言葉。いまでは義援という表記が一般化しているようだが、「義」は公のために力を尽くすこと、「捐」は棄てることとあり、これは喜捨の意に同じわけだ。
 違和感はさらに続く。本編が『優婆塞戒経』を引いて説明するくだり。寄付しちゃいけない四つを定めていること。老人、遠処、悪人、大力。これらについても、高齢者福祉やら悪人正機説やらの立場から突っ込みどころありありと思うのだが、寄付の原義はそうだと言われるとうっと詰まってしまう。もっとも私自身、寄付を古代インド語に遡って検討したりする素養がないのでごく上っ面の思いでしかないのだけど。
 そんな浅はかな所からあえて述べてみたいのだけど、もしかすると、ドライな寄付からウェットな寄付へという変化が生じたんじゃないだろうか。それを日本人的と言ってよいのか、あるいはもっと別のファクターなのかよくわからないけど、たしかにそんな展開がありそうに思うのだがどうだろう。
 東南アジアの仏教信仰に厚いと言われる各国の托鉢僧とそれに寄進する信者の場面を映像で見ることがある。寄進を受ける僧たちの態度は得てして無表情、とまでは言わないにしても、そっけないなという風情である。しかし信者たちはそんな態度を一向に意に介することもなく寄進を続ける。日本であれば、寄進を受けた僧侶は心から感謝の意を表すことが多いように見受けられる。もっともその言葉は定められた偈文に依っていたりはするが。
 そこに見えるドライとウェットの差に、なにか同じ匂いを感じるのだ。
 むろん上座部の僧侶達が感謝の意を持っていないと言おうとするのではない。私がなんとなくあやしいなと思っているのは、寄付という行為にまつわるなにやらちょっとだけ過剰な精神性のことだ。ここに良し悪しの問題を持ち込むつもりもない。ただやはりそこには日本仏教の、あるいは日本の特性があるのじゃないだろうか。
 とかく日本仏教を世界の仏教と比較する時、戒律遵守のいいかげんさがクローズアップされることが多いが、そんな「情的」な面の問題も取り上げてみてはいかがだろう。