よこみち【真読】 №136「業のことなど」
業の問題をしばしば取りあげている道元だが、今回の本編のテーマに触れて、永平広録の中の次の説示を取りあげてみたい。
それは広録巻7-517上堂である。
闍夜多(しゃやた)大士と鳩摩羅多(くもらた)尊者の問答に因んで道元が展開する場面だ。
大士が尊者に問う。
「私の両親はかねて三宝を信じているのに、いつも病気にかかっていて、やることなすこと思うようになりません。ところが隣家の者は旃陀羅(せんだら)の悪事をなしているのに、身体は頑健でその行いはすべてうまくいっています。いったい向こうはなんの幸いがあり、うちにはなんの罪があるのでしょう」。
尊者は答える。
「なにを疑うことがあろう。善悪の報いには三つの時がある。およそ人は、仁ある者が夭折し、暴悪なる者が長寿であると、悪逆なものは吉で、正義なる者は凶であると見て、因果の道理などなく、(善因善果・悪因悪果などという)行いに対する罪福など空しいと思うのものだ。しかしそれはまったくのもの知らずというもので、影が形に随い、響きが音に随うように、ほんの少しも違うことなく、(その真理は)たとえ百千万劫を経ても、摩滅したりしないのだ」。
このやりとりを挙げた後で、道元が〈三つの時〉のことを次のように言う。
「現報というのは蕎麦である。生報とは大麦である。後報とは好堅樹である」と。
上堂語はこれで終わり。
道元の言葉を少しく敷衍すると、
現報とは順現報受のこと。これは今年蒔いた種が今年のうちに刈り入れることができる蕎麦のようなものだ。
生報とは順次生受のこと。これは今年蒔いた種が来年に実る大麦のようなものだ。
後報とは順後次受のこと。これは長く地中にあって百年後に芽を出すという好堅樹のようなものだ。
さて、昨今「業」について話題にしようとするととたんに暗いイメージがつきまとうと感じるのはどういうわけか。そのように感じる人は私だけではないと思う。曹洞宗で「悪しき業論」というフレーズで、さまざまな場面で繰り広げられていた「業」に関する言説が、さながら言葉狩りのように糾弾されたことを、曹洞宗の人ならば誰でも記憶しているだろう。ここで不用意に「言葉狩り」などと表現し、そうした傾向に批判めいた言い方をすると、すぐにも「お前もかっ」と指弾されるのかもしれない。
だがここであえて確信犯的言い方をしているのは、「悪しき業論」問題へ批判を挑もうとしているわけではない。その初出である大元の論者達(身近な人間も少なくなかった)の言い様は、同じ時代を過ごした者として共感できるものであったし、もしかすると私自身も同じようなことを口にしたことがあったかもしれない。私の言い方が批判めいて聞こえるとすれば、それは現場で展開されていた「悪しき業論」を語る亜流の者たちに対して苦々しく思うところがあったからだろう。
だがここではそうした批判めいたことを述べるつもりはない。〈業論〉についてもっとフラットな言い方がされる余地はないだろうか、と思うのである。その余地がここに引いた道元の三つの譬えにあるように思うのだがどうだろう。
蕎麦と大麦と好堅樹の譬喩はきわめてわかりやすい。私たちが日常レベルでするりと得心できる説明だ。
たとえば今の自分を終点にして考えてみると、
a:自分あるいは誰かが近時に行なったことが今の私に与える影響
b:かつて自分あるいは誰かが行なったことがしばらくの時を経て今の私に与える影響
c:関知できないくらいの遠い過去に誰かが行なったことがめぐりめぐって今の私に与える影響
この三種の時を三時と言い、それぞれの時点の行いと影響を三時業と言う。
たまたま三つの時と言ったまでで、このことは過去のあらゆる時間が、今の私に影響を与えているという捉え方をしてかまわないものだろう。
こんどは今の自分を起点にして考えてみよう。
x:今自分で行なったことがすぐ後の自分あるいは誰かに与える影響
y:今自分で行なったことがしばらく後の自分あるいは誰かに与える影響
z:今自分で行なったことがずっと未来の誰かに与える影響
これもまた三時業と言えるのだろう。
すると現在の私を基点にして、延々と続く過去と、同じように延々と続く未来へと〈業〉はつながっている・つながっていくことになる。
自分という存在が過去のあらゆる時間に影響されていて、同じように未来のあらゆる時間に影響を与えうる。自分が大きな時間の流れの中で抜き差しならない一点を占めているという自覚を三時業の考え方は促すように思う。
「孤独」から救われる一つの手段のようにも思えるのだけど。