BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№137「あなたも私もありがとう」

 

乞食・托鉢の話題は本編の巻三№69「托鉢の僧に施す」でも取りあげていて、そのよこみち「マジメだけじゃ、つまんない」で行乞に関わるいくつかの説を紹介した。
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/01/17/101801
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/01/20/124119
 その際、布施に関わる子登の「自ら省みるべし、些(すこし)の施をなすとも、名聞に罹(かか)り、あるいは他に誇る志ならば無益」なり、という言葉に、かなりのキマジメさを指摘したが、おなじことは今回にも通じて言えそうだ。
 行乞に当たっては、貴賤を選ばず、富める者に対しても、貧しき者に対しても、「平等に」行乞すべき指摘がそれ。少しばかり子登の気持ちを「そんたく」してみれば、迦葉や須菩提のように、相手の貧富の度合いによって行乞をためらうのは、その法の精神にもとるものだ。なぜなら、行乞とは相手に対して「布施行」という浄行へと誘う一大契機であり、当の行乞者は自分の身をあえて卑賤にも見えるところにおいて、衆生の浄施行を誘発するものだから。

 いま一度、前に挙げた行乞の教え二種を挙げておくと次の通りである。
 『法集経』「乞食三意」
 一、珍味を貪らずして美悪均等
 二、我慢を破せんがために貴賤同じく遊ぶ
 三、慈悲平等にして大いに利益す
 指月慧印『行乞篇』
 行乞は理事等の論に非ず。仏祖の正伝骨髄なり。いま末法時世の人師、その習俗悪しきをもて、真行を卑劣野体なり、とそしりて十指ともに動ぜず。一歩わずかに移さざるを、高徳大道なりと思えるは、愚暗の甚だしき、実に無道心なるゆえなり。
 子登の「平等」の言は『法集経』に適い、子登の行乞を誤解している輩に向ける批判的態度は指月の言い方に通じていると言えるだろう。

 ここでやや問題の方向を変えて、子登や指月が批判しているところに目を向けてみよう。つまり、なぜ托鉢・行乞・乞食が、世間の多くからさげすまれたまなざしを向けられていたのかという点である。
 これも以前に触れた話題だけど、廻国修行者のこと(№86「廻国納経」)を取り上げた際、
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/06/02/073848
 江戸時代の「ろくぶさま」について紹介した。
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/06/23/084734
 本来は写経した『法華経』を納経するために、全国六十六箇所の札所を巡礼して歩く廻国修行の姿を真似て、恰好はそのままでも、仏教への信心はほとんど無く、写経・納経も形ばかり、じつのところは様々な理由で自分の住む村を追われ(あるいは逃げ出し)た者が、年貢課役などの義務から放れて、修行者のために食事や宿を提供しようとする一般の信心に巧みに取り入って身過ぎ世過ぎ使用とする連中が少なくなかったという。
 行乞もまたそれに似て、子登が言うような本来の宗教性は忘れられ、働かずして食い物にありつくという、そのようすが乞食を「コツジキ」と訓まずに「コジキ」と訓んでしまう風潮ができてしまった。
 世に言われる「乞食と坊主は三日やったら止められない」という言葉はいつ頃できたものかわからないけど、そんな傾向を苦々しく思う子登(や指月)の胸中は充分に察することができる。

 最初にあげた画像を見ていただきたい。布施を受ける托鉢僧たちはたったままだが、布施する人の方は地面にひざまづいている。不審に思う人がいたかも知れない。
 「どうかおめぐみを」
 「かわいそうに、ほらあげるよ」
 という構図ではないことがよくわかる。
 「どうか私に御布施をさせてください」
 「あそう、どうぞ。きっとあなたには幸いが訪れるよ、ごくろうさま」
 という構図こそ、ここに現れているものだ。
 これを踏まえたうえでこそ、
 「私に布施というすぐれた仏行をつとめさせていただいてありがとう」
 「私が用意させてもらった機会に応じていただいてありがとう」
 という双方の幸せが成就する、ということなんだろう。