BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№139「世渡り上手は嫌われる?」

 知に働けば角が立つ、情に棹させば流される。

 さとりにたどり着けぬ、迷いに閉ざされた領域、そのそれぞれを八種に分かって三塗(途とも)八難という。その八番目「世智弁聡」。中村『仏教語大辞典』には、「世俗のことにさかしく利口なさま。世渡りの智慧があり、賢いこと」とある。世間的には非情にメリットに富むこの能力はしかし、「仏の正法を信ずることができない八難の一つ」と一蹴される。少なくとも仏教の立場からは。
 「世渡り上手」「世知に長ける」「抜け目ない」等、この能力を評価する言葉は概してあまりよいイメージがない。本編で「世法」に親しむことを誡めているトーンはここに通じている。「世知」に通ずることは仏教ではタブーなことらしい。
 『楞伽資持記』から「世法なるを以て、出家の業に非ず」という一文を子登は引いていた。出家と世法は相対立するもので、世俗から離反していることによって出家性は担保される。なるほど話としてはわかる。
 でも婚姻し、家族を持ち、世襲によって寺院を相続することがほぼ一般化している現代において、この「出家性」はいかほど意味を持つものだろう。あるいはそんな「出家者」はどれほどいるのだろう。
 こんなふうに「出家性」がほぼほぼ幻想に過ぎないと開き直ってしまえば、「世智弁聡」に対する評価も自ずと変わらざるを得ないのではないだろうか。
 そう言うまでもなくすでにそれぞれの寺院の現場では、「開かれた寺院」とのキャッチフレーズで「世俗」に向かってあの手この手でアプローチしている寺院活動がにぎやかだ。「集客力」「発信力」「経営能力」これらに長けた僧侶の力がもてはやされるが、これらはみな「世法」の能力、「世智弁聡」の力のなせる技に他ならない。
 ことわっておくけれども、そうした傾向を指摘はするが、批判しようという意図はない。私達はそのように変化しているということを先ず認めよう、と言いたいのだ。片足を世法の側に置きながら、口先で世渡り上手批判を唱えるのは、世渡り下手の愚痴にきこえてもしかたないだろう。求められているのは「世法」に対する新たな折り合いのつけ方だ。
 ふと思うのだけれど、幕末や明治頃の眼蔵家と言われる禅僧たちのこと。難解で知られる『正法眼蔵』をぐいぐいと提撕しつつ、気のあう仲間とは酒を酌み交わし、在俗の葬儀にはきっちり引導を渡す。仏法だ世法だとちまちました論議を口にすることも無く、その間の壁をすっとばして、双方の上にどっかりと坐る。そんな「野太さ」がいつのまにか伝えられなくなってしまった。

 彼らは現代の僧侶を見てなんと言うだろうか。

 意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい。