BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №141「やけどするわよ」

 かつて、近くのお寺でぼや火事があり、お見舞いに伺った。庫裏には方丈様がおいでになり、そのお寺の総代さんが二人ほどいて、事の対処に相談中のようすだった。表書きに「祝融見舞い」としたためた赤のし紙の清酒二升を床の間に捧げ、このたびは大変なことでしたと口上を述べた。
 と、居合わせた総代さんの一人が床の間の品を怪訝そうに見つめながら私にこう言った。
 「方丈さん、これはなんと読むんですか」
 「しゅくゆうと読みますが」
 「赤のしにお祝いというのはどういうことですか」
 険のある口調を隠そうともせずに総代さんが重ねて言う。
 なにか怒っているのだろうと不審に思い、すぐに気がついた。
 「あ、この“祝”とあるのは“お祝いの”意味じゃないんですよ。“祝融”と言うのは火事のことで、もともとは火の神様ということなんです」
 あわててそう弁解したが、向こうは自分たちのお寺が火事で大変な目に遭い、こうして深刻な相談をしているのに、「お祝い」とはどんなふざけた料簡だ、とそのように受けとめたらしい。懸命に誤解を解くべく努めたが、「赤のし+祝」の持つお祝いムードは思った以上に強い効果だったようで、総代さんの不快な表情は最後まで崩れなかった。
 知ったかぶってそのような表書きを用意したわけではないのだが、ふり返ってみれば、人の受け止め方に対して配慮が足りなかったということになる。自責点1というところか。

 祝融三国志演義ではかなり強力な女性キャラとしても描かれる火の神である。
 世に「触れたら火傷しそうな女」という言い回しがあるが、それはなにもこの祝融に触れることではない。おそらくは恋愛の煉獄に引きずり込まれそうな魅力をたたえた女性のことをそう言うのだろう。幸か不幸かプライベートでそのような危険な目に遭った事がないので想像でしかものが言えない。
 そうしたアブナイ女とはまたタイプが違うようだが、本編で挿画に使った八百屋お七。その実像と世間的イメージとの違いにも議論がにぎやかなようだが、ここではしばらくそうしたにぎやかさから離れて物語の中のお七、西鶴好色五人女』の八百屋お七のことに触れてみたい。

 ここに本郷邊に八百屋八兵衞とて賣人むかしは俗姓賎しからず此人ひとりの娘あり名はお七といへり。年も十六花は上野の盛月は隅田川のかげきよくかゝる美女のあるべきものか都鳥其業平に時代ちがひにて見せぬ事の口惜是に心を掛ざるはなし

 お七登場の描写はかくも美しい(それにしてもこのあふれるごとき文章の饒舌、話が逸れるのでここでは追わないがすごいなといつも思う)。で、一方の主人公、小野川吉三郎との初見の場面。

 やことなき若衆の銀の毛貫片手に左の人さし指に有かなきかのとげの立けるも心にかゝると暮方の障子をひらき身をなやみおはしけるを母人見かね給ひ。ぬきまゐらせんとその毛貫を取て暫なやみ給へども老眼のさだかならず見付る事かたくて氣毒なる有さまお七見しより我なら目時の目にてぬかん物をと思ひながら近寄かねてたゝずむうちに母人よび給ひて。是をぬきてまゐらせよとのよしうれし。彼御手をとりて難儀をたすけ申けるに。此若衆我をわすれて自が手を痛くしめさせ給ふをはなれがたかれども母の見給ふをうたてく是非もなく立別れさまに覺て毛貫をとりて歸り又返しにと跡をしたひ其手を握かへせば是よりたがひの思ひとはなりけるお七

この「やんごとなき若衆」が吉三郎。お七とのふれあう場面は青春ストーリーもののように淡いタッチ。じつはこの物語を読んでいて思ったのだが、表面的な物語としてはついに展開せずに終わるのだが、お七の母の吉三郎に寄せる思いがほの見えるところが個人的にはけっこう趣あっておもしろく感じた。
 やや話はもどるがこの二人の出会いの舞台、駒込の吉祥寺である。もとはと言えば天和2年、江戸に大火が出て、多くの人々が焼け出され非難した先が吉祥寺。そこに身を寄せたまま過ごしていたお七の出逢ったのが、寺小姓として吉祥寺にいた吉三郎だったのである。銀の毛貫をきっかけの出逢いもそうした状況の中でのことだった。
 広壮な建物のようすの吉祥寺、二人の居場所は離れていたようで、そのいきさつがあった以後は再び出逢うこともなく翌春の正月となったある雨の夜、折から葬儀のために住職以下寺僧達は外へ出かけた。春雷の音激しく深夜にいたり、お七は母親のそばから布団を出でて吉三郎を探し求めて寺内をさまよう。たまたま台所で出逢った姥や常香盤役の小僧の導きで吉三郎の寝所にお七はたどり着く。二人寄り添い、聞けば吉三郎も十六歳という。もどかしいやりとりを応酬した後に結ばれる場面。

 何とも此戀はじめもどかし後はふたりながら涙をこぼし不埓なりしに又雨のあがり神鳴あらけなくひゞきしに是は本にこはやと吉三郎にしがみ付けるにぞおのづからわりなき情ふかくひえわたりたる手足やと肌へちかよせしにお七うらみて申侍るはそなた樣にもにくからねばこそよしなき文給りながらかく身をひやせしは誰させけるぞと首筋に喰つきけるいつとなくわけもなき首尾してぬれ初しより袖は互にかぎりは命と定ける

 現代風の具体的事柄に描写の及ばないのが西鶴の節度なのだろう。言ってみれば町娘のお七が、寺で見初めた小姓の部屋に夜這いへ出かけた場面である。発表当時はかなりの評判を呼んだらしい。
 さて翌朝、お七を探しに来た母親に見つかり、ことを察した母親によってお七は厳しい監視の目の元に置かれることとなる(ここにもお七の母と吉三郎との“関係”がうかがわれるように思うのだが)。二人の中は以来進展したようすがない。
 この後、寺を出でて暮らしに戻ったお七の家へ、ある日、松露土筆などを手籠に入れた物売りの少年が訪れる。里から来たと言うも折からの雪となり、亭主は土間の片隅に一泊の宿りを勧める。ところへ姪がお産との知らせ、亭主夫婦は出かけ、家に残った物売りの子の笠をお七がのけてみるとそれは身なりをやつした吉三郎その人であった。再会の喜びに浸るもつかの間、父親が帰ってきてしまい、二人は隠れて文を書きつけては見せ書きつけては見せするほかどうにもしようがなく朝を迎える。従前に増して思いが募ったまま別れる二人。
 よく知られたお七が火つけに及ぶのはこの後の話。もう一度火事になれば吉三郎に出逢えると思い。あとはご存じのように未然に終わった火事騒ぎではあったが、その咎人であるお七は死罪に。世をはかなんだ吉三郎は出家して僧となりお七の菩提を弔ったという。物語としては蛇足めいているがその落髪の場面。

 此前髪のちるあはれ坊主も剃刀なげ捨盛なる花に時のまの嵐のごとくおもひくらぶれば命は有ながらお七さい期よりはなほ哀なり古今の美僧是ををしまぬはなし惣じて戀の出家まことあり

 お七にも増して吉三郎の俗縁を断つ場面を「なほ哀」れという西鶴。ここにちらりと見える男色の気配もしばしば話題となるところではある。
 さてこの話、大胆な行動に突き進むお七の恋情パッションが主要なテーマではあるが、もう一つ、十六歳の女性をそこまで駆り立てた吉三郎の「美僧」ぶりが重要な要素となっている。のちに物売りの里の子に身をやつしてお七の家を訪ねてゆくあたり、吉三郎にさほどの世知に長けたかけ引き上手のようすなないのだが、それだけにイノセントな美少年性が際立つ。女をして恋の煉獄に引きずり込まずにはおかない、「触れたら火傷しそうな男」と言えるだろう。