BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №142「大人になんてなりたくない」

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 なべて生き物は年経ることによって成熟するものだ、と若い頃は思っていた。だがまわりを見回し自分を省みてどうもそうではないということが明らかになってきた。複数の経験から「なれ」を装う術は多くの人が見につけてゆくが、いったん切羽詰まった場面になるといわゆる「大人の対応」のできないことはままある。本編のように年ばかり食っても幼い振る舞いしかできないと批判されるのはなにも阿難だけではない。
 だが外見上は老人で中身は年少者という設定でも、必ずしも幼稚さ・未成熟というマイナス要因をかかえていない例もある。たとえば「ハウルの動く城」のソフィーがそれだ。荒れ地の魔女の魔法により老婆の姿にさせられたソフィーだが、彼女の資質は決して劣性のものではなかった。
 一方、外見は年少に見えつつも中身は成熟(ときに老成)している例もある。言うなれば「白髪の年少」じゃなくて「年少の白髪」というところか。
 たとえば名探偵コナン。その独白にあるように「たった一つの真実見抜く見た目は子供、頭脳は大人、その名は、名探偵コナン」となかなかわかりやすい。
 この例はかなりありそうだが、個人的に興味引かれる例をあと少し。
 孤児院育ちで、とある流産で子を喪った夫妻に引き取られていく少女エスター。あのじわじわ来る怖さはあとを引きましたね。
 もうひとり、「ブリキの太鼓」のオスカル。まだ二十歳そこそこで名画座でこれを見た時はすごかったなあ。馬の首のシーンなんてトラウマものだった。「ブリキの太鼓」の独特なのは、ほかの主人公達はなんらかの不可抗力によって肉体的な成長が止まる、あるいは時間的に遡行して年少化するのに対して、オスカルの場合は自らの意志で成長の停止・進行を制禦出来るところ。エスタ-の場合は成熟した女性になりたくてもフィジカルにはそうなれなかった悲哀があったが、その意味ではオスカルの場合はこれと対照的。歳月を経るに従って俗悪なものにまみれていく「人間の成長」を忌避したい気持ちは、おそらく多くの人たちが経験するものだと思うが、オスカルはあえてそのブレーキをかけたのだった。
 考えてみると白髪と年少とは、若さと老いをめぐるかなり普遍的なテーマだったと気がつく。子登がこのテーマを立項したのも、なにかそんなところに惹かれたのじゃないだろうかと、つい勘ぐってみたくなる。