BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №145「不如意」

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 水道配管工の友人が言っていた。
「段取り八分。したくがばっちりだったら仕事のほとんどはできたようなもんだ」と。小規模ながらいくつかの事業経験をしてきて、その言のたしかさもうなづける。
 仕事の支度、食事の支度、旅の支度。
 では本編に掲げた桜にせかされる死出の支度はどうだろう。巷間「エンディングノート」やら「生前○○」やら終活をめぐるあれこれの話題が絶えない。そんなことを相談し、また実際に対応措置を施していたいく人かの友人・知人がつい近頃にも先立ったが、彼ら・彼女らは果たして心置きなく〈逝く〉ことができたのだろうか。遺族達の心情を聞くと、必ずしも残された人たちは「充分に」は満足していないような気もする。「段取り八分」とはこの場合にも通じる言葉だったのだろうか。もっともそのしたくをしていなければもっと後悔のあったかもしれないことを思えば、他人の立場からあまり立ち入ったことも言えない。
 「死を迎える準備」が世の中で一般的な関心を呼ぶようになるその初めの頃、あるところで出逢った「生も不如意、死も不如意」という言葉。以前にも「よこみち」で触れたことがあるが、厳然な事実として私たちの人生の前にこの言葉が在る。いま、人の誕生と臨終に人間の恣意を介入させようとするさまざまな手管が試みられている。ひとつひとつのケースを見ればそうしたい心情もわからなくはない。
 しかしそうあっていいのだろうか。
 前回の「よこみち」で触れた大規模災害で喪われた数多のいのちはそんな〈準備〉はほとんど無縁だったはずだ。加えて、それに比べればいかにもささやかだが個人的な思いもある。気管支切開し何も言えぬまま、意識混濁のうちに四十五歳で死んで行った父もまたそんな「したく」とは無縁だった。しかし今に至ってもああいう死に方はしたくないとは思ったことはない。あれもまたひとつの死。あるべき(=あって然るべき)死のひとつと受けとめている。
 「生も不如意、死も不如意」とは、「生き死に」は人間のはからいを越えた生きものの真実だと今でも思う。終活ブームのむべなるかなの念はありつつも、そうした思いがぬぐえない。