BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【世読】No.6「最期のごちそう」

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 三国時代、呉の人孟宗は筍好きの母親のために冬山の竹藪に筍を求めに入る。しかし雪の中に筍はない。落胆と悲しみに天を仰ぐ孟宗に感じて、天が筍を与えたと伝えられる。
 こと大切な人のために少しでもよい食材を用意したい、そのためにできる限りの手を尽くした人々のエピソードは多い。パーヴァー村の鍛冶屋チュンダもその一人。
 
 八十歳を迎えようとしていた仏陀は、アーナンダを伴い最後の旅に出る。年老いた身体を引きずり、霊鷲山(王舎城)から故里の北に向かってガンジス河を越え、行く先々で布教・伝道をしながらの旅であった。「 若き人アーナンダよ」とよばれるアーナンダの年齢も五十歳を超えている。
 途中のパーヴァー村では鍛冶工の子チュンダに法を説いた。喜んだチュンダは、釈尊を次の日二月十五日の朝食に招待する。ところがチュンダが心をこめて作ったきのこの料理は、釈尊の弱った身体には合わなかった。釈尊はすぐに気がついたが、チュンダの好意を無にしたくなかった。それとなく他の者には食べさせないようにチュンダに話した。
 しかし、食した釈尊は激しい腹痛と下痢と出血に苦しむ。ところが、釈尊はクシナーラーを目指して再び出発するのである。今夜が最後の夜と覚った釈尊は、カクッター川の川岸で休まれ沐浴をした。
 川岸に横たわった釈尊はアーナンダにことづてを頼む。チュンダが、「 自分の供養した食べ物で釈尊が亡くなった」と思って苦しまないようにという配慮であった。
 きっと誰かが、「 チュンダの料理のせいで釈尊は亡くなられたのだから、チュンダには利益がなく功徳がない。」と言い出すだろう。しかしそれは間違いで、私はチュンダの料理を最後の供養に選んで逝くのである。

 私の生涯で二つのすぐれた供養があった。この二つの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさにひとしい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳がある。

 その二つとは何であるか? 
 一つはスジャータの供養の食物で、それによって私は無上の完全なさとりを達成した。
 そしてこの度のチュンダの供養である。この供養は、煩悩の残りの無いニルバーナ(涅槃)の境地に入る縁となった。
チュンダは善き行いを積んだ。

 

 奔走・馳走の「走る」は、文字通り走り回るというよりも、食材を用意する人の心の用いようを形容する言葉だろう。その心づくしに深く感謝することばが「ごちそうさま」だ。

 チュンダの釈尊に対する心づくしは、釈尊のチュンダに対する心づくしにつながり、その釈尊の心は遠い時を隔てて今の私たちの心を動かす。