BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【世読】No.8「亡者の集い」

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 このたびの「参(サン・まいる)」だがちょっと見てみるとかなりツッコミどころの間口が広いもののようだ。
 たとえば和語としての「まいる」。どこそこへまいる、という本編の言い方のほかに、すぐ思いつくのは「いや~、まいっちゃったよ」という言い方。他にもいろいろありそうだが、そのあたりはちゃんと辞書がカバーしている。詳しい紹介は省くけれども、元来は貴人のところへ下位の者が行くことを言う謙譲語だったものが、だんだん敬う意が薄れてきて「まいっちゃったよ」という方向へ語義が流れていったものらしい(『日本国語大辞典』「まいる」項参照)。
 これに対し漢語の「参」。『諸橋大漢和辞典』によれば、
 一、1)みつ(三)、2)三者立ちならぶ、3)たちならぶ、4)まじはる、5)あづかる、6)かねる、7)こもごも、8)まうでる、9)~18)略。
 二、1)星宿の名、2)ながいさま、3)斉しくないさま、4)鼓を撃つ法、5)人参、6)姓。
 三、1)多くのものがしたがひつづくさま、2)略。
 とその語義はまた多様である。ここで和語と漢語のちがいを取り上げるのも一手なのだが、それよりも気になることがある。
 それは『世説故事苑』が、参の意について「謂く幽顕皆な集まり神龍並び臻(いた)る。既に聖凡間(へだ)つること無し豈に輙(たやすく)僧俗を分たんや。ここを以てこれを参と謂う」と結論づけている点である。これは『世説故事苑』自身が言うように『祖庭事苑』巻八を典拠としている。この本は宋代の禅語辞典と言えるもので、この中の「小参」という項目にこの文章がある(じつは日本の無著道忠による『禅林象器箋』が「小参」について同じ引き方をしているので、子登はこっちを見たのかもしれないけどここではどっちでもかまわない)。
 これの何が気になるのかというと、「幽顕皆な集まり神龍並び臻る」というところなんだ。これはつまり「幽顕」すなわち幽界(あの世)の者も、顕界(この世)の者も、さらには人間ならぬ神龍たちも群れ集まってくる、という意味じゃないだろうか。それが「参」だというのである。この解説はさきほどの『日本国語大辞典』にも『諸橋大漢和辞典』にも見えないものだった。すでに見たように子登のオリジナルでもなく宋代の禅籍に見えるものだ。はたしてこれを「参」の中国的理解だとか、インド以来の仏教的発想によるものだとか言っちゃっていいのかどうか解らない。もしかするとすでにこれについて調べている人があるかもしれないけど、いまのところそっちは当たっていない。
 でもおもしろいなと思う。
 どうしてここで「幽界」のことまで引き合いに出てくるのだろう?
 『祖庭事苑』の立項には(『世説故事苑』に見たように)早參・晚參・小参を出し「是皆以謂之參」とするが、ということは禅僧の力に関わるものなのだろうか?
 そう考えると和語と漢語の語義の拡がりよりも、なにか奥深い「参」の意味にたどり着きそうに思うのだが、残念ながら今の時点ではここまでの思いつきで「まいった」と言うしかない。
 乞う、賢者のご教示を。