BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(1)

 梅花流詠讃歌を参究するために、それぞれの歌意を解説するものは少なくありません。けれども詠唱・詠讃という、いわゆる「うた」そのものについて説得的に説いている資料はまださほどに多くないように見受けられます。
 そのような中で、『三宝御和讃』をはじめとする草創期の梅花流詠讃歌の作曲者として知られる権藤圓立師(1891-1968)は、自身が声楽を専攻する音楽家であったこともあり、また生まれが真宗大谷派の寺院(宮崎県延岡市)であったこともあり、仏教信仰者の立場から音楽歌唱の大切さを説いていた数少ない存在でした。
 権藤師が梅花流のために歌唱の大切さを説いたものは数点知られていますが、いずれも短編のものでした。ところがこのたび約三〇頁に及ぶ、権藤師が曹洞宗布教のために音楽歌唱についてまとめた文章を見いだしました。これは後述のような事情から、現在の梅花流ではあまり知られていないもののようです。しかしこの文章は上記のような主旨を平易に展開しているものとして、梅花流に関わる人たちにとって益するところとても大きなものがあると感じました。
 よって今回よりいく度かに分けて、その全文をご紹介していこうと思います。皆様からのご感想などお寄せいただければ幸いです。
 なおこの文章の発表された時代背景や、権藤師の業績について、まだ不勉強ながら今のところ知り得ている関連情報などを合わせてコメントして参りたいと思います。
 初回は本資料の輪郭について記します。
 この文章、権藤圓立「聴覚による布教の仕方」は、昭和28年12月に曹洞宗宗務庁教学局より刊行された布教指導叢書シリーズの第9輯『立体布教』に収録されているものです。
 この前年、曹洞宗教団は佐々木泰翁宗務総長内局の先導により「正法日本建設運動」をテーマとして掲げました。以前このグループに「「お誓い」成立の時代背景」として投稿したように、その際の三つのスローガン〈明るい日本、正しい信仰、仲良い生活〉が、現行の梅花流「お誓い」に継承されているわけで、この運動自体、梅花流には関わりの深いものです。そしてこの運動の具体的活動の中心が民衆布教にありました。昭和27年、サンフランシスコ講和条約に基づきGHQが去って、日本の名目上の独立が果たされましたが、敗戦後の困窮した状況はまだ癒えておらず、教団が主導して曹洞宗の「正法」によって新しい日本を再建しようというのがこの運動でした。民衆布教はそのための重要な実践目的であったのです。
 このため曹洞宗は社会の各層に対してさまざまな布教戦略を展開しますが、そのひとつがこの叢書の刊行でした。ちょうどこの前年頃(「梅花流」の呼称決定は昭和26年末から)より曹洞宗詠讃歌活動に関わっていた権藤師は、必ずしも宗門人の得意ではない音楽布教の専門家として、本書への執筆が求められたのだろうと思います。
 権藤師は戦前より日本の宗教音楽、就中仏教音楽を創設しようとして主要メンバーの一人でありました。

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 はしがき

 仏教の教理にうとく、殊に曹洞宗の宗乗や宗旨というようなことについては、全くの素人である私が、聴覚による布教の仕方などについて記すことは、まことに、むつかしいことであるというより。むしろ不可能なことである。然しながら、私はこれまでにいわゆる教化事業というようなことに、いくらか携わってきた経験があるので、ここに記したのはその報告に過ぎないが、立体布教の何かの参考ともなれば幸である。

釈尊の説法について

 漢訳の仏教経典には必ず「偈」がある。偈は韻文である。散文で書かれた中に偈の韻文があるということは、説法の中に、ある一つの調子を以て、諷詠とまではゆかなくても、ある抑揚をつけて述べられたものであろう。でなければ韻文にならなくてもよい訳である。原典もやはり韻文になっているということであれば、われわれから見ると、韻文に書かれた部分は、ある曲節で諷詠されたものと思わざるをえない。
 又漢訳の経典を見ると多く仏説……経と題し、如是我聞と書いてあるが、これは結集の時に、釈尊の説かれたことを覚えていた方達が、互に発表し合うて書き付けられたものと思われる。さすれば視覚(目)による布教よりも聴覚(耳)に訴えられた説法の方が最初であったことが窺われる。
 一体、話をするとか、伝えるとか、説くとかいうようなことは、聴覚というものを必然的に前提として行われるものである。聴覚による布教は、布教というものの根本的のものであると思う。又話したり説いたりするのは抑揚があるから、よくわかるのである。抑揚が無かったら、その効果は著しく減ずるであろう。
 釈尊は言葉の抑揚に、さらにある調子をつけて、一定の長さに区切って説かれたのであろう。それがつまり偈となって現れたものと思われる。偈は曲節をつけて説かれたに違いない。即ち諷詠されたのである。そうして言葉に表現された自分の考えを、さらに深く印象づけるために、繰り返し繰り返し諷詠されたものと思う。こうして自分というものが、次第に皆の人に溶けてゆくことを念じられたのであろう。かくしてその目的が達せられ、言葉はただの言葉ではなく、言霊となって深い感情を湛えた音楽となっていつまでも耳に残ったのである。
 釈尊は六十四種の頻伽梵音を有せられたと言われる。この音法を優波離尊者に授けられた。これが今日の声明の源である。聴覚に訴えるものは、何というても音声そのものである。声はその人その人特有の色合いを持つ。その音声はその人を如実に伝える。音声にふれることはその人にふれることである。人間は敬愛するもの声を聴くことによって成長する。子は父母や多くの肉親の愛の声を聴き、それを吸うて育つ。声は愛情となる。自分の肉親や愛人が死んだ時、何が最も悲しませるかを考えるならば、今なお耳に残るその人の声ではなかろうか。わが国では、恋愛の歌のことを相聞というのも、この間の微妙さを告げているものではなかろうか。