BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(2)

 今回の引用箇所にある〈梵讃・漢讃・和讃〉という説明の仕方は、早い頃に梅花流の複数の先生達から講習の際にお聞きしていたことでした。こうしてみると、この理解は権藤師が端緒になっていたかもしれないという気がします。

 真宗大谷派のご寺院出身である権藤師が、文末で坐禅のことに触れているのは、曹洞宗に関わりを持ったことへの配慮かもしれませんね。

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 声明のこと

 声明はもと、古代印度に於ける五明(今日の言葉でいえば五分科学に相当する)即ち声明、内明、因明、医方明、工巧明の一文科学であって、声音、語法の学問である。今日いう音声学、文法、修辞法の如き学問に相当する。それが転化して、梵讃、漢讃の唱法が声明となってしまった。またこの梵讃や漢讃ではわかりにくいところから、誰にでもわかるようにしたのが和讃、つまり和語讃嘆である。真宗では、この世俗的になった和讃が念仏名号と共に声明の本体となっている。
 これら声明が、荘厳された殿堂の仏前で唱えられる時、唱えるものは元より、ここに参集する人々は、この声明を聴いて、ひとしく仏讃の思いをいたすであろう。これはとりもなおさず聴覚に訴える、広い意味の布教といえると思う。勿論、殿堂、荘厳そのものも視覚に訴える同じく広い意味の布教といえるのであるが、これら視覚によるものよりも、声明はより直接的でジカである。ここが声明が仏教の音楽となった起因ではなかろうか。聴覚に訴えるには、楽器の音よりも声明である。それは布教するものの第一儀に考えねばならぬことであると思う。

 音声について

 声音は人間の楽器である。声帯の振動によって生ずる音である。声音は、その人その人によって音色が異なっている。顔が十人十色というのと同じである。音色で、すぐ誰彼と判断がつく。声は腹式呼吸によって初めて整えられる。それは状態のどこにも力を入れない、肩を上げ下げしないで、胸を張って腹部のみでする深い呼吸、即ち横隔膜の円滑な運動による呼吸である。この点坐禅の呼吸と一致する。その人の真の音声は坐禅の境地から生まれる。