BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(4)

 今回の引用箇所にある「仏教音楽会」は、正式には〈仏教音楽協会〉と謂い、昭和2年(1927)7月にその創設について協議が行われ、翌昭和3年(1928)1月に「仏教音楽ノ大成及普及ヲ図ル」ことを筆頭の目的に掲げ設立されました。会長・四條隆愛、理事長・中島万吉、常務理事・伊藤精次ほか当時の代表的な詩人・文士・作曲家等の協力を得て発足したようです。伊藤精次(1878~?)は、はじめ教職にありましたが、後ち仏教に帰依し、『浄土三部経』の研究にも従事し、その後仏教音楽協会の設立主要メンバーとして活躍したようです。

 仏教音楽協会は、新作仏教音楽の公募を行い、『四恩の歌』はその第二回の公募当選作品だったようです(楽譜の発表は昭和5年5月15日)。
 浄土宗の明照会館とは、東京都港区芝の増上寺境内に今もあります。曹洞宗宗務庁のご近所ですね。
 このたびの引用文で、今度から木魚で拍子を取って見ようという人いるかもしれませんね。

⊿ ⊿ ⊿ 以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ 

 木魚による歌唱、唱和

 昭和の初め、文部省宗教局内に、伊藤精次によって仏教音楽会が設立され、仏教聖歌が制作されて世に弘められた。その最初年度に出来たものの中に“四恩の歌”と言うのがある。それが出来た時、浄土宗の明照会館に僧侶方が、何かの会で大勢参加していられた。仏教音楽協会の評議員であった私は、四恩の歌の歌唱指導を仰せつかったのであった。ところが会場にはオルガンもピアノもなかったので、手拍子で始めたが、会場が広いので、なかなか徹底しない。ふと目についたのは、一番前の机に置いてあった、勤行に用いられた木魚であった。これこれと早速手拍子をやめて私は木魚を打ち出した。クスクスと笑い声が起こった。然し次第に笑い声も止み、歌い声が木魚の拍子に乗って来て、手拍子の時より余程うまくなった。そして難なく皆歌えるようになった。木魚の音と歌声とが融け合うて、まことに和やかな境地を醸し出したのであった。この境地に浸ることが大事で、これがとりも直さず聴覚による布教の境地と考える。四恩の歌は次の通りである。

四恩の歌  塚本愛子作歌 小松耕輔作曲
 一
天照す 我が大君の 民草を いつくしみます
御恵の 底ひも知らず うたはばや 吾等の幸を
尽さばや 我がすめらぎに
 二
たらちねの 幾年かけて おほしたて 養ひましし 
みなさけの かぎりも知らず うたはばや 吾等の幸を
尽さばや 我が父母に
 三
諸人の 一つこころに 助けあい 睦みあふ世に 
常春の 花もかほらむ うたはばや 吾等の幸を
尽さばや 我が同胞に
 四
とこしへに 闇路を照らす 大智慧の 法の燈
はてもなく 世にぞかがやく うたはばや 吾等の幸を
尽さばや 我が御仏に

 私は以前から木魚による唱和ということを考えていたのであったが、実際にやってみてその効果に驚いたのであった。木魚はその音は低くて、歌唱の指導には果たしてどうかと危惧の念を抱かないでもなかったが、明照会館での実見でそれはたちまち解消してしまった。
 仏教は、うまい楽器を発明したものである。きわめて低音でありながら、その音は我々の心の奥底に響達する。そのリズムは、大勢いる殿堂の中でも、隅々まで到達する。而して少しも耳を刺激しない。極めて柔らかに響いて来る。耳障りにならないで徹する。同じ打楽器であっても、鐘のように余韻を残さない。であるから、勤行のうち、比較的長時間使用される。鐘は同じ打楽器でも、木魚より余韻を残す上に耳への刺戟が強い。であるから一点か二、三点で、始めか終わりか中途の区切りのようなところに打つようになっている。木魚のように、長い時間連打しようものなら、やかましくて敬讃、讃仰、敬虔などの心持ちが、全然削がれてしまうに違いない。この木魚が、昨今非常な流行を来たし、いろいろに使用されているが、取り分け多く使われているのはジャズ音楽に取り入れられていることである。これはジャズ音楽そのものが、極めてリズミックであるところからの面白い着眼であると思う。

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